歴代のセコムオリジナル長嶋茂雄さんの看板(ビッグボード)と、それにまつわる豆知識のご紹介や、1957年に通算8本塁打で東京六大学リーグ本塁打の新記録を達成してから現在にいたるまでの、長嶋茂雄さんの伝説「NAGASHIMA Living Legend」と、数々の名言を世の中に送りだしてきた長嶋茂雄さんの名言「伝説の長嶋茂雄“語録”」をご紹介します。
第43回
プロ野球80周年と巨人、ヤンキース
プロ野球80周年のレギュラーシーズンが始まっています。日本一になるトップ候補は巨人でしょう。そこで、巨人とプロ野球の原点を巡る雑談です。
巨人は、昨季よりチーム内の競争が激しくなりました。片岡(治大・西武)、井端(弘和・中日)を加えたのがいい例です。野球記者たちは「セカンド、ショートには寺内(崇幸)、坂本(勇人)がいるのに」と、あまり評価しない気配です。監督時代の私は、マスコミ受けしないこの種の補強をずいぶんやって、「欲しい、欲しい、の長嶋さん」と冷やかされました。もちろん、聞き流しです。
勝ち続けてこそ真のレギュラー
人間、ライバルがいないといくら気持ちを引き締めているつもりでも、緊張感は続きません。ポジションは別でしたが、王(貞治)さんがいなかったら、私の成績はだいぶ違っていたでしょう。王さんも私がいなかったら「本塁打の数は減っていただろう」といっています。
「レギュラーにお任せ」はダメです。「レギュラーは大変」な状態にして置くのが強いチームの大切な要素です。チームの内外で勝ち続けてこそ真のレギュラー、そんな選手を一人でも多く生み出すための補強、そう観ました。
「レギュラーにお任せ」はダメです。「レギュラーは大変」な状態にして置くのが強いチームの大切な要素です。チームの内外で勝ち続けてこそ真のレギュラー、そんな選手を一人でも多く生み出すための補強、そう観ました。
ところで、私がいつも思うのは、球界全体を進歩させ盛り上げるには、リーダー、盟主となるチームの存在が欠かせないということです。巨人がそうならなくては、と思うのです。
群雄割拠というと勇ましいけれど、つまるところはドングリの背比べ。日本シリーズ連覇は西武のV3(1992年)が最後です。「どこが勝つか分からなくて面白い」という意見もあるでしょう。しかし、"押しくらまんじゅう"では前に進まない。目標になる強豪チームがいた方が追いかけるチームも集中できて全体のレベルが上がるのです。かつてのV9のようなことは夢物語ですが、連覇は可能です。昨季あと一歩でそれを逃がした巨人は今季日本一になり、さらに来季、西武以来23年ぶりの連覇をと、そこまで見据え戦ってほしいのです。
群雄割拠というと勇ましいけれど、つまるところはドングリの背比べ。日本シリーズ連覇は西武のV3(1992年)が最後です。「どこが勝つか分からなくて面白い」という意見もあるでしょう。しかし、"押しくらまんじゅう"では前に進まない。目標になる強豪チームがいた方が追いかけるチームも集中できて全体のレベルが上がるのです。かつてのV9のようなことは夢物語ですが、連覇は可能です。昨季あと一歩でそれを逃がした巨人は今季日本一になり、さらに来季、西武以来23年ぶりの連覇をと、そこまで見据え戦ってほしいのです。
盟主球団があってこその球界進歩
こんな2年スパンで考えたのも、「プロ野球80周年」で思うところがあったからです。80年前の「プロ野球の原点」に触れてみます。
昭和9年(1934年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグをともなった大リーグ選抜軍が来日して全日本と16試合対戦しました。日本は全敗ですが、日本の野球人は自信喪失どころか、逆に闘志を燃やしました。「アメリカ野球と互角に戦うには職業野球チームを作るしかない」と、年末には「大日本東京野球倶楽部」の結成です。翌年、倶楽部は2月から7月まで半年間のアメリカ遠征、アメリカ人向けにチーム名を「東京ジャイアンツ=巨人」として、100試合超を戦いました。船で往復一か月の時代です。凄いことです。先輩たちの情熱に頭が下がります。
そして昭和11年(1936年)公式戦開始、私の生まれた年です。自分と野球との縁を感じないわけにはいきません。
この大リーグ選抜軍からは9選手が殿堂入りです。その史上最強チームを目標にして出発したのが日本プロ野球です。私の「盟主球団あってこその球界進歩」の野球史観はこの「原点」を知ったことに影響されている気がします。
昭和9年(1934年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグをともなった大リーグ選抜軍が来日して全日本と16試合対戦しました。日本は全敗ですが、日本の野球人は自信喪失どころか、逆に闘志を燃やしました。「アメリカ野球と互角に戦うには職業野球チームを作るしかない」と、年末には「大日本東京野球倶楽部」の結成です。翌年、倶楽部は2月から7月まで半年間のアメリカ遠征、アメリカ人向けにチーム名を「東京ジャイアンツ=巨人」として、100試合超を戦いました。船で往復一か月の時代です。凄いことです。先輩たちの情熱に頭が下がります。
そして昭和11年(1936年)公式戦開始、私の生まれた年です。自分と野球との縁を感じないわけにはいきません。
この大リーグ選抜軍からは9選手が殿堂入りです。その史上最強チームを目標にして出発したのが日本プロ野球です。私の「盟主球団あってこその球界進歩」の野球史観はこの「原点」を知ったことに影響されている気がします。
ルースとゲーリッグの2人の来日はファンの心に二人が所属したヤンキースの名を深く刻みました。この二人の後継者ジョー・ディマジオがマリリン・モンローとの新婚旅行で来日したのが、私が立教に入った年、帝国ホテル周辺は二人を一目見ようと大群衆でした(ディマジオにあこがれていましたから、来日した2月1日の日付まで覚えています)。
私がヤンキースに直接ふれたのが1962年1月でした。石原裕次郎夫妻とアメリカに行き、ニューヨークで前年ルースのシーズン60号の本塁打記録を破る61号を打ったロジャー・マリスと会ったのです。ミッキー・マントルとマリスが組んだ3、4番は「MM砲」と呼ばれました。王、長嶋の「ON砲」のお手本ですね。忘れられないのが旧ヤンキースタジアムのロッカーのレッドカーペット。松井(秀喜)がピンストライプのユニホームを着てくれたのは嬉しかった・・・と際限がなくなります。
私がヤンキースに直接ふれたのが1962年1月でした。石原裕次郎夫妻とアメリカに行き、ニューヨークで前年ルースのシーズン60号の本塁打記録を破る61号を打ったロジャー・マリスと会ったのです。ミッキー・マントルとマリスが組んだ3、4番は「MM砲」と呼ばれました。王、長嶋の「ON砲」のお手本ですね。忘れられないのが旧ヤンキースタジアムのロッカーのレッドカーペット。松井(秀喜)がピンストライプのユニホームを着てくれたのは嬉しかった・・・と際限がなくなります。
というわけで、大リーグはヤンキース、日本は巨人の盟主球団が先頭に立て、と言いたいのです。プロ野球80周年、午前中はヤンキースのマー君(田中将大)の投球に注視して、夜は巨人戦、楽しいシーズンになるはずです。
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