セコム創業期物語
この「セコム創業期物語」は、昭和37年7月7日、日本警備保障株式会社(現セコム株式会社)を創業する直前から、昭和50年までの会社の基盤ができるまでの創業期を“読む歴史”として社内報で紹介したものですが、それを一部手直ししてご紹介します。
第21回 「SPアラーム」拡販に初の本格的管制センター開設
昭和45年7月に、東京・晴海の離島センタービル2階に、初の本格的中央管制センターであるSPアラームセンターを開設しました。
併せて、全国18ヵ所にSPアラームセンターを新増設し、全国のご契約先700件(当時の保有契約件数は前年末で約500件)の処理能力であったものが、一挙に5万件の処理能力にアップしました。
前年4月7日に108号連続射殺魔逮捕に貢献した「SPアラーム」ですが、これで一挙に拡販体制へと基盤が整いました。そしてこの年、次なる重要な施策が打たれることになります。
第22回 巡回警備サービスから撤退
昭和45年に箱根の富士屋ホテルで支社長会議が開かれ、飯田は大転換を決断しました。「機械でやれることに人手を割くのは、人間の尊厳を損なうものだ。従って巡回警備は廃止する。常駐警備も増やさず大幅に値上げする。今後の営業はSPアラーム1本で行く」。幹部社員は一様に驚きました。
なぜなら、巡回警備サービスの契約件数は前年末で2,000件に達し、一方、「SPアラーム」は500件に過ぎませんでした。翌日以降、各地域の責任者は、巡回警備サービスのご契約先に対して、SPアラームへの契約変更をお願いすることになりました。お客様からは解約になるなど、当然強い抵抗がありました。しかし、こうした大変な困難に立ち向かった結果、昭和46年末にはSPアラームの契約は5,000件を突破。一方、巡回警備サービスは急速に縮小していきました。
現在の国内177万件を超えるオンラインセキュリティシステムの基盤は、この時に築かれたと言っても過言ではありません。
第23回 昭和45年の大阪万博でも重責果たす
昭和45年は、大阪府吹田市で日本万国博覧会(以下、大阪万博)が開かれた年でした。西欧文化圏以外で初の万国博として注目を集め、77カ国が参加して、3月15日から9月13日まで183日間、開催されました。
大阪万博は、当初予想では観客数3,000万人でしたが、しり上がりに人気が高まり、約6,422万人という、当時の博覧会史上、最高の入場者数を記録しました。内外の118館のパビリオンが立ち並びましたが、アメリカ館の月の石などが大変な人気を博しました。
大阪万博の警備は、昭和43年8月から万博会場の建設現場警備から始め、他社との分担によりスタートしました。45年3月15日からは、会期中の警備に入りましたが、南方面を担当し、建設現場警備から数えれば、9月13日まで2年1ヵ月強、無事故で警備を行い、無事終了しました。
こうした大規模なイベントの警備の経験とノウハウは、今年8月に開催した大阪世界陸上などの警備にも脈々と受け継がれ、活かされています。
第24回 長嶋茂雄さん当社のテレビCMに登場
テレビCM撮影中の長嶋さん 昭和46年3月20日から、当社のテレビCMに長嶋茂雄さんが登場しました。と言うと、若い仲間は、数年前まで放送されていた最近の長嶋さんの「セコムしてますか」というテレビCMの印象が強いので、意外に思われるかもしれませんが、現役絶頂期のこの年から47年にかけて当社のテレビCMに最初の出演をしていただきました。
2月19日に宮崎キャンプ中の長嶋さんを訪ね、宮崎県営球場のグラウンドで華麗な3塁の守りのフィールディングをカメラに収めました。長嶋さんは熱心に撮影に付き合われ、他の選手の練習が終わった後も球場に残って撮影に協力されました。でき上がったテレビCMは「鉄壁の守り」をテーマにしたもので好評を博し、当時の日本警備保障のPRに一役買っていただきました。
長嶋さんは、その後1990年(平成2年)から再度、セコムのCMキャラクターを務めていただくことになり、現在まで17年以上にわたり当社のキャラクターとして活躍いただいています。
第25回 一般公衆回線利用のSPアラーム発売
日本で初のオンラインセキュリティシステム「SPアラーム」の発売約5年を経た昭和46年10月27日、東京・北の丸公園の科学技術館で、一般公衆回線を利用した「SPアラームホン(のちアラームパック)」発売の記者発表会を開催しました。
それまでの「SPアラーム」は専用回線しか利用できませんでした。一般公衆回線を利用したオンラインセキュリティシステムは、わが国でも初めてのもので、月額料金もより低価格で利用できるようになり、「SPアラーム」の"普及版"とも言えるものです。
今では当たり前に思われる一般公衆回線の利用も、当時としては画期的なことで、この記者説明会にも多くの記者が出席し、新聞やテレビなどでも報道され話題になりました。この「SPアラームホン」の発売は、その後のオンラインセキュリティシステム普及にさらに弾みをつける重要な施策となりました。
第26回 札幌オリンピックも警備を担当
東京オリンピックから8年後の昭和47年2月3日~13日の間、札幌市で、札幌冬季オリンピックが開催されました。ジャンプ競技などでの日本選手の活躍もあり、日本中が大きな興奮に包まれました。
当社は、東京オリンピックの選手村警備などで大きな責任を果たしましたが、それに続き、札幌冬季オリンピックでも会場周辺警備を中心に重要な役割を担いました。特に札幌は冬季大会であることから、ジャンプや回転・大回転など屋外での競技が多く、しかも猛吹雪でマイナス10度以下の寒風が吹き荒れる中での警備だっただけに、警備に当たった常駐隊員の苦労も大変なものがありました。
警備内容は、会場周辺の観客と車両の交通規制業務が中心となりましたが、会期終了まで一つの事故もなく警備業務を完遂し、苦労が多かっただけに、士気はいやが上にも高まりました。
第27回 「セコム(SECOM)」ブランドを制定
昭和37年の創業以来、革新的なサービスを次々に創造し、提供してきた「日本警備保障(株)」は、オリンピックや万博での警備を担当し、その名を徐々に社会に浸透させてきました。
そして犯罪の増加により、それまで社会の常識であった「水と安全はタダ」という考え方が変わり始めると同時に、日本の通信技術も急速に発展し始めた昭和48年2月、「セコム(SECOM)」という新しいブランドを制定しました。「セコム」とは、「セキュリティ・コミュニケーション(Security Communication)」という言葉を略した造語で、“人と科学の協力による新しいセキュリティシステム”の構築というコンセプトを持ちます。
新ブランド制定後10年間は、「日本警備保障」の社名のまま「セコム」も使い、ダブルブランドで事業を展開してきましたが、「セコム」という名前が社会に浸透し、CATV会社の設立など情報系事業をスタートし、事業内容も警備だけではなくなったことから、昭和58年に「セコム(株)」へと社名変更しました。同年12月には、セコムグループの発展と社員の人間的成長を達成するための共通の理念が記された「セコムの要諦」が制定され、新しい社名と共に、6年後の平成元年に経営ビジョンとして掲げる「社会システム産業」の構築に向けて新たな一歩を踏み出しました。
第28回 大規模施設向けに「セコム3」発売
昭和48年3月8日から、東京・晴海の国際見本市会場で、第1回保安警備防災機器綜合展が開催され、当社も出展をしました。そこで、トータルセキュリティシステム「セコム3」の発売を発表しました。
「セコム3」は、大規模施設向けに、防犯、防火、出入管理、諸設備管理まで行うわが国でも初めてのトータルセキュリティシステムです。
また、この年の2月にブランドとして「セコム」を発表しましたが、そのブランド名を冠した初の商品となりました。「セコム」ブランドの制定時に、<安全が保障された平和な社会>を<セコム社会>と呼び、その実現を目指すことを企業目標にしましたが、そのためには大規模施設向けのトータルセキュリティシステムは不可欠なシステムだったのです。
この「セコム3」は、その後、「トータックスシステム」へ発展する、大型施設向けセキュリティシステムのさきがけとなったものです。
第29回 米国銀行と提携し無人銀行システム開発
昭和48年8月1日、当時、アメリカにおいて最も先進的といわれたハンティントン・ナショナル銀行との間で、無人銀行システム(ハンディバンク・システム)による安全システムを相互提携しました。
無人銀行システムは、ハンティントン・ナショナル銀行が世界で初めて考案・開発したもので、ミニコンピュータで運用し、預金、払い出し、振替、返済など通常銀行業務の80%以上を処理する。年中無休の24時間営業が可能で、場所も百貨店、スーパーマーケット、空港、ドライブインなどにも設置できるので便利な仕組みとして、この年の3月にアメリカで第1号店舗が設置されました。
この提携は、昭和49年4月1日に、「CDセキュリティパック」の発売として結実。わが国初のCD(キャッシュディスペンサー、現金自動支払機)の安全管理システムとして高い評価をいただきました。
第30回 世界初のCSS(コンピュータセキュリティシステム)が稼動
昭和49年6月24日、東京証券取引所市場第二部に上場を果たしました。この時期までには、ほぼ全都道府県に拠点を開設し全国体制を整備しました。
そして翌年の昭和50年3月1日、東京・晴海のコントロールセンターで、世界で初のCSS(コンピュータセキュリティシステム)が稼動を開始しました。
それまで四六時中、管制員がご契約先の異常点滅ランプを監視していましたが、異常発生と同時に管制卓のモニターに発生時刻、異常内容とご契約先情報が自動的に表示され、安全性と効率性が飛躍的に向上しました。これにより、その後のオンラインセキュリティシステムの契約が急速に増大していきました。
こうした昭和50年までの各施策により創業期の基盤が整い、その後の発展につながりました。