セコム創業物語 第11回~20回|企業理念・ビジョン・歴史|【セコム】防犯、警備、ホームセキュリティのセコム株式会社 −信頼される安心を、社会へ。−

セコム創業期物語

この「セコム創業期物語」は、昭和37年7月7日、日本警備保障株式会社(現セコム株式会社)を創業する直前から、昭和50年までの会社の基盤ができるまでの創業期を“読む歴史”として社内報で紹介したものですが、それを一部手直ししてご紹介します。

第11回 「SPアラーム」第1号契約(上)

写真:初期の管制室
初期の管制室

昭和41年5月、「SPアラーム」を開発。本部装置を設置し、営業を開始しました。第1号の契約は、東京・池袋にある銀行の支店でした。

警備開始当日の6月20日、飯田は、4名の社員を呼び、「今日から機械警備を実施する。1人はこの機械(本部装置)を見ていろ。他の3名は緊急要員だ。ここに赤ランプがついたら、ご契約先に異常があった印だから、すぐ現場へ行かなければならない」と指示をして、各社員は業務につきました。

現在、法人約110万6,000件、家庭約156万0,000件、合計約266万6,000件(2023年9月末現在)に及ぶオンライン・セキュリティシステムを中心としたサービスが、ここに開始されたのです。

第12回 「SPアラーム」第1号契約(下)

写真:当時のビートカー
当時のビートカー

昭和41年5月、「SPアラーム」を開発し、営業を開始しました。最初は、都市銀行に営業折衝をしました。銀行に導入されれば、他の銀行への波及効果もあると考えたからです。そんな時期、東京・池袋の銀行の支店に強盗が入り、宿直の行員がけがをされるという事件が発生しました。当時、銀行の支店には宿直室があり、行員が交代で寝泊りをして、お客様からの緊急の連絡にも対応できるようにしていました。そこで当時の支店長にアプローチをしました。

当時のもようを、社内報でご本人にインタビューをした記事があります。

「昭和41年でしたが、支店に強盗が入りましてね。宿直者がけがをしたんです。大きく新聞にものりましてね。そこでそのシステムに考えついたわけです。当時は、宿直者は当然いなければならないという考えで、本部を説得するのは大変でした。それで、宿直者がいるからかえって危険だということを説得して、それじゃあ、日本警備保障で試験的に1年間やってみようということになったんです。宿直者がけがをしましたので、宿直を続けるのは心配でしたから、私も真剣でしたよ。飯田さんのところへ説明を聞きに言ったくらいですから。お陰様で1年間まったく事故がなかったんですよ」と話されました。

そして、6月20日からのサービス開始につながったのです。

第13回 理念を創った「社章を守る会」

写真:昭和42年4月、東京・神田の街を歩く飯田(右)・戸田
昭和42年4月、東京・神田の街を歩く飯田(右)・戸田

「SPアラーム」を開発した昭和41年秋、社員による窃盗事件が相次いで発生し、会社の存亡にも関わる大事件となりました。マスコミでも大きく取り上げられ、その対応にも追われていました。その中で飯田は、今後の組織の発展のためには、組織の皆が同じ考えを持たなければいけないし、同じミッションを持つ必要があるということで、昭和42年から1年以上にわたって、「社章を守る会」を開きました。

「社章を守る会」は、1回に数十名ずつ泊りがけで、週1回、多いときは週2回、合計で50回以上行われました。ここでの飯田、戸田と仲間との白熱の議論によって、現在の「正しさの追求」や「現状打破の精神」など、セコムの基本的な理念ができ上がってきました。組織は、それを境に格段に強固になり、セコムのカルチャーが生まれてきたのです。

第14回 「攻撃は最大の防御である」

写真:初めての現金護送車完成、右端が飯田
初めての現金護送車完成、右端が飯田

昭和41年秋、社員による窃盗事件が相次いで起こった時、問題の対応に追われながらも、「攻撃は最大の防御である」との考えから、営業活動もやめなかったし、さらなる成長のため、組織固めのための「社章を守る会」を開催したり、さまざまな施策を実行しました。

昭和41年9月には初の現金護送契約を取得。当社の仕様で現金護送車を完成し、名古屋の銀行で現金護送をスタートしました。また同年12月には、最初の関連会社、日本警備保障三重株式会社(現セコム三重株式会社)を設立しました。

さらに翌年の昭和42年5月には、日本警備保障上信越株式会社(現セコム上信越株式会社)を新潟市に設立しました。そして、業容の拡大から、同年6月、本社を、東京都千代田区神田神保町のクロサワビルから、中央区日本橋本石町3-4-5の菊地ビル2階に移転。菊地ビルには、役員室と本社事務部門が移転し、営業契約部と東京地区警務部がクロサワビル7階と8階に拡充をしました。また、10月には国際警備連盟に加盟し、日本のリーディングカンパニーとして国際的にも認識されるようになりました。

第15回 渥美清さんの「泣いてたまるか」に登場

写真:主人公の警務士を演じる渥美清さん
主人公の警務士を演じる渥美清さん

当社がテレビドラマのモデルになったケースとしては、10回目でご紹介したように「ザ・ガードマン」が有名ですが、“寅さん”で一世を風びした渥美清さんの主演で、昭和41年4月から43年3月まで、TBS系テレビで放送された人気ドラマ「泣いてたまるか」シリーズの1話として取り上げられたことも、忘れられない歴史のひとコマです。

その回は、昭和42年4月2日に放送された「僕もガードマン」というタイトルの回で、当時、当社が制作に全面協力をして、警務士の制服、車両などすべて当社の実物のものを使用しており、社名や社章がそのまま画面に登場してきます。そして、「ザ・ガードマン」が実際の仕事とは違う内容となっていたのに比べ、この「僕もガードマン」は当時の日本警備保障の業務をありのままリアルに演じられているところが大きな特徴です。

このシリーズは、1話ごとに渥美清さんがさまざまな職業の主人公を演じるだけでなく、監督、共演者も超一流のスタッフが回ごとに変わるというぜいたくな制作方法をとっています。この「僕もガードマン」の監督は、のちの映画「人間の証明」「植村直己物語」「敦煌」などの大作でメガホンをとった巨匠・佐藤純彌監督があたりました。

第16回 創立5周年社報に初の代表メッセージ

写真:創立5周年の社報
創立5周年の社報

昭和42年7月7日、日本警備保障は創立5周年を迎えました。

この時、「われら警務士」という8ページの社報が発刊されました。この社報は、その前後数回発行されたあと、昭和44年3月に「まもり」という名称で社内報が発刊され、さらに昭和55年1月に「セコミティー」と改名され、現在に続いています。

特にこの創立5周年の社報では、保存されている中で最初と思われる飯田のメッセージが社員および家族に向けて掲載されています。その一部を抜粋して紹介します。

「日本警備保障は、警備保障事業を初めて日本に導入したのですが、警備保障は守衛とは全く性質が異なり、非常に高度の専門警備を社会に提供し、企業に代わって科学装備をもって、犯罪、火災等の災害を未然に防止しようという任務を持っています。このように社会安全に役立つところが大きいので、各方面の期待も日に日に高まっています。

5周年を迎えた今日、わが社は社員1000名を数え、車両は150台を突破しており、他の追随を許さない陣容を整えています。東京本社のほか、札幌、新潟、千葉、横浜、浜松、名古屋、三重、京都、大阪、神戸、福岡、北九州に事業所、系列会社があり、全国的な組織の下で、活動しています。これが5年間に築き上げた社員の努力の結晶です。この組織も、発足当時はわずか5名、3年目に150名を超え、4年目には400名となって今日に及んでいるもので、この成長率には、私自身も驚いているほどです」と、記されています。

この飯田のメッセージから、基本的な考え方は創業当初からいささかもぶれていないことと、設立当初の急成長ぶりがうかがわれます。

第17回 「SPアラーム」が108号連続射殺魔逮捕に貢献(上)

写真:当時の新聞記事
当時の新聞記事

昭和44年に発生した事件は、セコムの歴史上、犯人逮捕に繋がった事件のうち、最も有名なものとなりました。その事件は、「SPアラーム」が当時、日本の社会を震撼させた108号連続射殺魔事件の犯人逮捕のきっかけを作ったもので、これにより販売開始4年目の「SPアラーム」の有効性が、一躍社会に浸透することになりました。その犯人逮捕劇は、以下の経緯で行われました。

4月7日午前1時20分、東京地区管制本部(現・東京中央コントロールセンター)に、「SPアラーム」のご契約先、渋谷区千駄ヶ谷にある一橋スクール・オブ・ビジネスから異常信号を受信。管制から現場急行を指示された東京地区巡回機動隊の中谷利美隊員は、急きょビートカーで現場に駆けつけ、外周点検で犯人が建物に侵入中であることを確認。通行人に警察通報を依頼し、建物内部に入ってみると、カウンター越しに、事務所の中のロッカーや机の引き出しがあちこちあいていました。

カウンターの向こうをライトで照らしてみると、男がうずくまっていました。犯人に機先を制して誰何しましたが、犯人は立ち上がり、中谷隊員にピストルを向け発射。中谷隊員はとっさに叩き落しましたが、この時、右ほおに軽い痛みを感じたそうです。あとで弾がほおをかすめてかすり傷を負ったことが分かりました。この後、あとから到着した隊員も加わり、二人は犯人と格闘となりましたが、犯人は再びピストルを拾い上げ、暗夜に乗じて明治神宮の方へ逃走をしたそうです。(当時のシステム行動は、現在のそれと異なります)

午前4時27分、都内全域に緊急配備が出された約40分後に、犯人は逮捕されました。犯人は、前年の10月から、東京、京都、函館、名古屋の各地で、4人をピストルで射殺し、広域手配をされていた19歳の少年だったのです。

第18回 「SPアラーム」が108号連続射殺魔逮捕に貢献(下)

写真:4月12日の表彰式後のひととき、右側座っているのが飯田
4月12日の表彰式後のひととき、右側座っているのが飯田

昭和44年4月7日に発生した108号連続射殺魔事件は、「SPアラーム」が犯人逮捕のきっかけを作り、事件は終結しました。早朝、犯人が逮捕されたことと、命に別状はなかったものの中谷隊員がピストルの発射でかすり傷を負った報告を受けた飯田は、朝、両隊員に会った時、思わず「あまり無理するなよ」と声をかけたといいます。

4月8日の新聞各紙は、前回で紹介したように1面で大きく事件解決を紹介し、社会面では「SPアラーム」のことを詳しく説明し、「事件知らせた新兵器」などと報じられました。この日から、本社には、問い合わせの電話が鳴り止まないぐらい電話がかかってきたということです。

4月12日には本社で、飯田から、両隊員をはじめ東京地区管制本部などに表彰状が授与されました。表彰式後、中谷隊員は、「こんなに大きく騒がれるとは思ってもいませんでした。今、表彰状をいただいてみると、やっぱりうれしいですね」と感想を述べています。

この功績に対して、この年の9月21日から27日まで、西独(当時)・ミュンヘン市で開催された国際警備連盟総会でも、満場一致でゴールドメダルが授与されました。

第19回 最初の社歌と愛唱歌を制定

写真:昭和44年制定の社歌のソノシート
昭和44年制定の社歌のソノシート

昭和44年7月7日には、最初の社歌と愛唱歌が制定されました。この時、社員数は約3000名に達しており、こうした仲間の心意気を表現してもらい、その士気を鼓舞するために社歌を作ることになったものです。

社歌の作詞は、詩人、童謡作詞家であるサトウ・ハチローに依頼しました。サトウ・ハチローは、戦後の日本を象徴する大ヒット曲「リンゴの歌」を作詞したことで著名で、「ちいさい秋みつけた」など有名な童謡も多く作詞しました。作曲は八洲秀章で、現在の社歌と愛唱歌が昭和59年に制定されるまで、長い間、仲間に親しまれました。

社歌の歌詞(1番のみ掲載)は、以下のとおりです。

1.雨の夜更けも    吹雪の朝も
勇んで警備に    あたるは我等
努力と精励       奉仕を胸に
この日を正しく   まもるは我等
輝やくわが社     輝やくわが社
おお日本警備保障

第20回 5番目の本社・三会堂ビルに移転

写真:5番目の本社となった赤坂の三会堂ビル
5番目の本社となった赤坂の三会堂ビル

赤坂の三会堂ビル 昭和44年4月7日に、「SPアラーム」が108号連続射殺魔逮捕に貢献した約1ヵ月後の5月19日、東京都港区赤坂1-9-13の三会堂ビル1階に本社が移転しました。

三会堂ビルは、規模の大きなビルで、アメリカ大使館やホテルオークラなどに近い交通至便の都心にありました。昭和53年の新宿野村ビルへの本社移転まで9年にわたり本社を構えたこともあり、創業期の多くの社員にとって思い出深い場所となりました。創業以来、本社は手狭になって移転を繰り返し、赤坂の三会堂ビルは創業7年で5ヵ所所目の本社となりました。

また、この4月には最初の保養所、伊豆長岡寮を開寮。7月には日本警備保障健康保険組合(現セコム健康保険組合)を設立し、翌年4月には日本警備保障厚生年金基金(現セコム企業年金基金)を設立するなど、着々と基盤整備も進めました。

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