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セコム創業期物語

 この「セコム創業期物語」は、昭和37年7月7日、日本警備保障株式会社(現セコム株式会社)を創業する直前から、昭和50年までの会社の基盤ができるまでの創業期を“読む歴史”として社内報で紹介したものですが、それを一部手直ししてご紹介します。

  • セコム創業期物語 第1〜10回 創業から「SPアラーム」開発
  • セコム創業期物語 第11〜20回 「ザ・ガードマン」から本社・三会堂ビル移転
  • セコム創業期物語 第21回〜30回 晴海の管制センター開設からCSS稼動

第1回 創業者2人が創業を決めた時

写真:創業期の飯田(右)と戸田
創業期の飯田(右)と戸田

 飯田 亮(創業者、現・最高顧問)は、昭和31年に学習院大学を卒業後、家業である東京・日本橋の酒問屋・岡永商店(現・岡永)に勤め営業を担当していました。飯田は男ばかりの兄弟5人の5男坊で、上の兄が岡永に勤めていたため独立を考え始めていました。当時、学生時代の友人であった戸田壽一(創業者、前・最高顧問)とは時々飲み、将来の独立を語り合う仲だったのです。
 昭和36年の冬、浅草の鳥鍋屋で飯田が戸田と欧州帰りの別の知人と3人で食事した時のことでした。その席で知人が「欧州には警備を業務とする会社がある」と教えてくれました。
 飯田と戸田はまだ日本にないビジネスであることから「これだ!」と独立を決断。わが国初の警備会社を興すことにしたのです。決断には30分とかからなかったそうです。

第2回 東京・九段に開設した設立準備事務所

写真:設立準備事務所を置いた千代田区九段南の千代田会館跡地
設立準備事務所を置いた千代田区九段南の千代田会館跡地(現在この地にあるのは建て替えられたビル、当時の千代田会館は5階建てビル)

 昭和36年冬、わが国初の警備会社の創業を決めた飯田と戸田は、すぐに東京の千代田区九段南2-2-8の千代田会館というビルに設立準備事務所を開設しました。この場所は、靖国神社の道をはさんで向かいにあり、現在もあるインド大使館のすぐ近くにありました。
 この千代田会館は、二人にとっては、参考書類を集めたり、企画に頭を使ったりして、"生みの苦しみ"の多かった場所でした。近くに桜の名所として有名な千鳥ヶ淵もあり、翌37年春には窓越しに見えた桜の花がとても美しく、その後もその風景が強く印象に残っているそうです。
 この年7月、この千代田会館での"生みの苦しみ"を経て、「日本警備保障」が誕生したのでした。

第3回 東京・芝公園に「日本警備保障」誕生

写真:港区芝大門1-9-1にあるSKFビル
港区芝大門1-9-1にあるSKFビル(現在のビルは昭和51年に建て直された)

 昭和37年7月7日、飯田と戸田は、東京都港区芝公園7号1番地(現在、港区芝大門1-9-1)にあるSKFビル2階に、日本警備保障株式会社(現セコム株式会社)を創業しました。資本金は自己資金と信用金庫から借りた400万円。
 社名は、"警備"に、日本で初めての事業なので頭に日本をつけ"日本警備"にし、さらに最後に"保障"をつけて、「日本警備保障」という社名が生まれました。最後の"保障"という二文字には安全保障の"保障"と"補償"の思いを込めたそうです。
 そして、まず新聞で社員を募集しましたが、"弁護士"にならって"警務士募集"とうたった広告が功を奏し、約400名の応募者が殺到。そのうち2名を採用し、事務員を含め5名でスタートしました。

第4回 数ヵ月を要した最初の巡回契約

図:創業以来の「フクロウ」と「カギ」の社章(現在の社章は、SECOM)
創業以来の「フクロウ」と「カギ」の社章
(現在の社章は、SECOM)

 昭和37年7月7日の創業後、飯田と戸田は、あらゆることを取り決め、日本で最初の警備事業を開始しました。
 その中の一つには、「フクロウ」と「カギ」の社章があります。「知」の象徴であり、夜行性の鳥である「フクロウ」と、警備の象徴である「カギ」を組み合わせ、上部にはラテン語で“VIGILAMUS DUM DORMITIS(万人眠れるとき、われら警備す)”という言葉を配しました。(現在、社章は「SECOM」になりましたが、「フクロウ」と「カギ」のマークは、今でも常駐警備員の帽章やボタン、女子制服のボタンなどに使われています)
 飯田は、創業当初、自ら営業として企業を訪問して回りましたが、訪問した企業の担当者は、話はおもしろがって聞いてくれても、なかなか最初の契約が取れませんでした。それは、創業の時に決めた契約料は「3ヵ月前納」「前払い」の条件付き、「知り合いのツテやコネには一切頼らない」という考え方を一歩も譲らなかったからです。
 最初の契約は、ほぼ創業4ヵ月後の10月24日、東京都千代田区麹町の旅行代理店との巡回契約でした。飯田は「"商い"は"飽きない"に通じる。根気が必要だ」とがむしゃらにセールスに歩き、飛び込み訪問を押し通した結果のことでした。

第5回 東京・神田小川町に本社を移転

写真:昭和38年当時の三四ビル
昭和38年当時の三四ビル

 創業の翌年、昭和38年4月、本社を東京都千代田区神田小川町3-4の三四ビルに移転しました。このビルは、NHKの「プロジェクトX」のセコムの創業物語でも取り上げられたことがありますが、天井の低い7坪ぐらいの部屋で、エレベータで最上階まで行き、そこからさらに屋上へ出て非常階段みたいなものを上ったところにありました。
 当時、契約数は増え始めましたが、それでも12〜13件、社員も8名ほど。契約が増えると必要な人数だけ社員を採用し、飯田自らが教育をしていました。ただ、このビルに移ったころは、警務士を希望してくる人があっても、この事務所を見ると、ドアを開けずに回れ右をしてしまうので、「必要を売る会社に無駄はない」という貼り紙を出しました。
 これは社員には受けませんでしたが、外部の人たち、ことにマスコミには大受けで、そのころから、こちらから働きかけなくても、積極的に取り上げてくれて、ずいぶん宣伝になりました。

第6回 常駐警備の初契約を取得

写真:東京・晴海の国際展示場の常駐警備
東京・晴海の国際展示場の常駐警備

 本社を東京・神田小川町に移転した昭和38年4月、初めて常駐警備の契約を取得しました。前年末から巡回警備の契約が取れ始め、やっと二ケタの契約件数になったところでした。
 最初の常駐警備のご契約先は、東京・晴海の国際展示場でした。当時はそれほど立派な建物も建っておらず、一面野原で、自動車ショーなどは青空展示でした。警備詰所もなく、キャンプ用テントで寝泊りして警備にあたっていました。東京港に近く、契約がスタートした春先は、雨が降ると寒さに震えながら警備にあたっていました。
 なお、この年からは伊勢丹のデパートの常駐警備もスタートしました。

第7回 東京オリンピックの警備を受注

写真:東京オリンピックの選手村の警備
東京オリンピックの選手村の警備

 昭和38年の暮れ、東京オリンピックの組織委員会から警備の依頼をしてきました。内容は、代々木の選手村を工事や整備の段階から警備して欲しいという依頼でした。飯田は、大きな仕事ではあるけど期間が短い。社員を相当多く増やさないといけないが、オリンピックが終了後、増やした社員に見合う仕事を確保できるか不安もありました。
 38年の12月10日、東京オリンピック組織委員会と正式な契約を結びました。警備を開始した当時の選手村は、取り壊す予定の米軍住宅が約400戸も残っており、泥棒や子ども、アベックなど不法侵入者が多く手を焼きました。あまりに広大なので、自転車を使って巡回をしていました。
 昭和39年10月10日、東京オリンピックが開幕し、10月24日に幕を閉じました。無事、無事故で会期を終えたことで、組織委員会から感謝状が贈られました。この東京オリンピックを経て、社会から高い評価と信頼を得て、仲間の士気も一気に高まりました。

第8回 本社をクロサワビルに3回目の移転

写真:昭和39年当時のクロサワビル
昭和39年当時のクロサワビル

 昭和39年3月1日、本社を設立2年弱で早くも3回目の移転を行いました。場所は、東京都千代田区神田神保町1-4のクロサワビル7階。東京オリンピックの選手村の警備で徐々に社員数が増え、千代田区神田小川町3-4の三四ビルが手狭になったことからの移転でした。三四ビルが7坪と狭かったこともあって、引越しといってもトラック1回分で引越しができるほどでした。
 新しいクロサワビルの事務所は、中央線の御茶ノ水駅から7分。前の三四ビルから5分。靖国通りに面していて、当時としては比較的高いビルでした。以前が狭かったので、余計広く感じました。この当時の社員は約100名。前年12月に開始した東京オリンピックの選手村の警備は、この年10月10日〜24日の東京オリンピックまで続きましたが、この時期を経て業績は急カーブを描いて上昇していきました。

第9回 「SPアラーム」の開発に着手

写真:昭和41年に発売された「SPアラーム」の第一号機
昭和41年に発売された「SPアラーム」の第一号機

 東京オリンピック(10月10日〜24日)が開催された昭和39年は、組織も急拡大していました。そのための施策もいろいろ手を打たれました。10月1日には、初めての支社として大阪支社が開設されました。四大賞(現セコム大賞)もこの年制定され、昇級試験もこの年から始まりました。
 そして、新たな発展策としてこの年の11月、「SPアラーム」(発売は昭和41年6月)の開発に着手をします。飯田と戸田が東京都八王子市にあった芝電気八王子工場を訪ね、「SPアラーム」の試作器製作の依頼を行いました。この当時は、まだ「SPアラーム」の名称はなく、仮に"遠方通報監視装置"と呼んでいました。
 このシステムの開発に取り組むことにしたのは、一つは巡回警備や常駐警備だけで拡大して、ご契約先が増えれば、将来社員は10万人、20万人になり、管理しきれなくなる。二つ目は、当時高度経済成長期に入り、急激に人件費が上がっていたので、人的警備だけでは高いサービスになってしまい、一部の限られたお客様しか利用できなくなってしまう。三つ目は、異常の監視、情報の伝達といった機械でできることはセンサーなどの機械に置き換え、判断力や機動力、処置力といった人間でなければできないことは人間がやる。これは人間の尊厳の問題であると考えたからです。

第10回 テレビドラマ「ザ・ガードマン」放映開始

写真:「ザ・ガードマン」の出演メンバーと中央右が飯田、中央左が宇津井健さん
「ザ・ガードマン」の出演メンバーと中央右が飯田、中央左が宇津井健さん

 昭和40年4月から、当社をモデルとしてTBS系のテレビドラマ「ザ・ガードマン」の放映が始まりました。当社がモデルとなったきっかけは、東京オリンピック後に始まった帝国ホテルの常駐警備の警備員が、新しい仕事としてテレビ局のプロデューサーの目に止まったことでした。このテレビドラマはその後大ヒットし、当社の知名度が一躍高まることになりました。
 当初、テレビ局側がつけたタイトルは「東京用心棒」でしたが、「我々は用心棒ではない」と飯田が反対。変わりに和製英語「ザ・ガードマン」がタイトルになりました。さらに、飯田は脚本に、「汚い言葉遣いを禁止する。女性とは絡まない。酒は飲ませない」の3条件をつけました。
 宇津井健さん主演で、目新しさに加え、清潔で爽やかなテレビドラマに仕上がった「ザ・ガードマン」は、40%を超える高視聴率を記録。放映期間も大幅に延長し、一世を風びするテレビドラマとなりました。


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