健康予防医療コラム ~その他~

常識は誰のために?

「常識」の先の「心遣い」に目を向けて

「こんなこと常識だろう」「常識の無い人はこまるね」「常識的に考えておかしい」というように、常識という言葉は日常よく耳にします。
 
 辞書には「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」と書いてありますが、「一般の社会人」とは?「共通にもつ」とは?「普通の知識」とは?と突き詰めて考えると意外と難しい壁にぶつかります。
 
 挨拶の仕方、他人のお宅への訪問の仕方、電話応対、日常使う言葉の意味など、常識の範囲はプライベートから、ビジネスまで広い範囲にわたります。
 
 春になると書店には新社会人向けのビジネスマナー書が沢山並びます。タクシーの席の座り順、玄関での靴の脱ぎ方、贈り物の仕方、服装や言葉遣いなど、マナー書をパラパラめくって自分も知らなかったマナーに出会うと、「あのとき、先方は自分を非常識な人間だと思ったのかな…?」と少し気になります。
 
 あなたは「こんなの常識だろう」といわれて、どきっとしたことはありませんか? 自分では親しくなったので友達言葉を使って話していたら、相手が「年上に対して馴れ馴れしい、常識がない」と怒ってしまったとか、会合の部屋で出入りに邪魔にならないように部屋の奥の方にいたら「おまえのような若造が上座にいるなんて非常識だ」といわれてしまったり…。
 
 Aさんにとって心遣いと思っていることを、目の前のBさんがそう感じていないとすると、AさんはBさんに対して「非常識な人」または、「常識を知らない人」という印象を受けます。自分では配慮しているつもりが、逆に不快感を与えてしまったという皮肉な結果になってしまうこともあります。
 
 常識は社会の人間関係が円滑になるように、そして心遣いの最低ルールだとしたら、気を遣うことが裏目に出たとき、たまたまビジネスマナーを知らなかったときなど、悲しい思いをすることがあります。
 
 ですから、相手の言動に対して「常識がない人だな」と思ったとき、自分を振り返ってみてください。「その人の常識」と「自分の常識」が違うだけなのか、心遣いがないためにそのように振る舞っているのか、どちらなのか…。「常識」とは「今自分が常識だと感じていること」に過ぎないのかもしれません。
 
 その「常識」の向こうにある、「心遣い」「配慮」そのものに気を配ることが、ストレスのない、優しい人間関係を作っていくような気がします。
 

監修:大多和 二郎 先生
掲載日:2012年09月01日

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