健康予防医療コラム ~休養・心の健康~

ゴミの山かと思えば宝の山

自分のなかにある「観念」と「感性」

 テレビで骨董品の鑑定をしてくれる番組があります。一般の人が、家の押し入れの中から持ってきたものやおじいさんおばあさんが大切にしていた形見など、そのものの「価値」を専門家に鑑定してもらう番組です。
 テレビに出てきた人は、自分なりの鑑定予想金額を最初に示し、そのあとで専門家の鑑定結果としての金額を見て、感想を述べます。すごく価値があると思っていたけれど、鑑定の結果、贋作だったとか、逆に捨てようかと思っていたけれど、鑑定してもらうと、相当の価値あるものだったとか…。なかなか、骨董品の価値は見分けにくいようです。
 すごくそのものが気に入っていて、大事にしていた人が、偽物だったとわかったときにも、専門家の人は、「でも、大事になさってください」と声をかけます。歴史的な価値、客観的な評価額としては高くなくても、その壺や掛け軸を気に入っている人にとっては、その人にとっての「価値」があることへの優しい言葉だなと思います。
 しかし、マニアにしかわからない珍品といわれるものや、お菓子のおまけなどは、その価値を感じる人には価値があっても、興味のない人にとってはただのがらくたにしか見えません。こうなると、価値というものがいったい何を基準にして決まるものなのか、だんだんわからなくなってきます。

 では、人は何を持って価値を感じるのでしょうか? 食べ物であったら自分が美味しいと感じること。音楽や絵であれば、自分が感動したりほっとしたり、心地よい気分になれること。家であれば、自分が住み心地がよいと感じること。いろいろあります。
 一言で言うと、自分の心や体が喜ぶような反応を示すものに人は価値を感じます。気に入っていた壺が贋作だとわかったとき、価値を感じなくなったとしたら、その人は、「この壺は高く売れるかも知れない」「有名な人の作品を持っているのだ」というような観念で価値を感じていたのでしょう。ですから、鑑定士の「贋作ですよ」という言葉を聞いたとたんに、価値を感じなくなってしまいます。一方、その色合いや風合い、肌触りなど気に入っている人にとっては、鑑定士のひとことでも、それほど価値はかわりません。
 つまり、人の評価で価値が変わってしまうとしたら、最初からそこには、他人の目が入り込んでいた可能性があります。「これは珍品だ」「これは高級な食べ物だ」とか、そういう他人の評価で自分の感性的評価がかわってしまっているのです。時々、自分の感じている「価値」を見直してみると、自分のなかにある「観念」と「感性」の関係が見えてきます。すこし、ふりかえってみると面白いかも知れませんね。

監修:大多和 二郎 先生
掲載日:2006年05月01日

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