助成研究者情報(神崎亮平先生9)|安全安心な科学技術の振興:セコム科学技術振興財団

東京大学先端科学技術研究センター 教授 神崎亮平先生 インタビュー「昆虫嗅覚センサー情報処理による匂い源探索装置の開発」(第3回)


1600個の細胞のデータは、特定の領域ではなく、脳全体から取ったものなのですね。コンピュータで仮想脳を作ったとき、匂い源の探索の他に、どのようなシミュレーションが可能ですか。

 シミュレーションのメリットは、「この部分の回路を欠損させたらどうなるか」「この回路とこの回路を繋げたら何が起こるか」というふうに、実際の脳では不可能なテストができることです。
 実は、カイコガがフェロモンの匂い源を探索する行動は、たった2つのニューロンで再現することができます。しかし生きているカイコガは1万個のニューロンを使って、フェロモンの匂い源を探索しています。そこにはもちろん意味があるのですが、その意味は解明されていません。仮に1万個のニューロンを全て調べて、そのデータをもとに仮想脳を構築し、生物としてのカイコガと同じ行動を再現できたとしても、その1万個がどのようなルールのもとに働いているのかは分からないのです。
 そこで、その1万個のニューロンで構成される回路を擬似的に作成し、一部のデータを欠損させると何が起こるのかを、シミュレーションで確認します。どこまで外したらその機能が失われるか、どれだけ残せば機能が保てるのかを確認することができれば、その機能を生み出している基本的なルールが見えてくると考えています。
 基本的なルールが分かれば、さまざまな応用が可能になります。建築の基礎知識があれば一般住宅から高層ビルまでの設計が可能になるように、10万個のニューロンからなるカイコガの脳の仕組みがわかれば、ニューロンが300個程度しかない線虫の脳から、1000億個のニューロンを持つ人間の脳まで、多くの脳の仕組みが分かるようになるはずです。

すべての生物の脳が、同じルールのもとに作られているということですか。

 人間や昆虫、鳥類や魚類など、それぞれの姿や能力は大きく異なりますが、多くの生物には「神経」と「脳」という共通の器官があります。つまりもとは同じルールで生きていて、進化の過程で別々の変化を遂げたにすぎません。
 たとえば人間には鬱病という病気があり、セロトニンの減少が原因と言われていますが、昆虫もセロトニンが減少すると鬱病に似た現象を起こします。オスのカイコガはメスのフェロモンの匂いを検知すると元気よく羽ばたきますが、セロトニンの量を抑えるとその反応が弱くなり、セロトニンが多く出るようにすると激しく興奮します。
 また、生物の脳の状態はセロトニンなどの脳内物質の量によって刻々と変化しています。例えば食事が目の前にあるとき、何か嬉しいことがあって気持ちが明るくなっていれば、食欲が増して、おいしく食べることができるでしょう。しかし悲しいことや寂しいことがあれば、気持ちとともに食欲も落ちてしまい、少し食べただけで箸を置いてしまうかもしれません。

ペットの犬や猫も、同じ時間に同じエサをあげても、そのときの気分で食べる量や速さに違いがあります。脳を活性化させるセロトニンなどの脳内物質は、人間やカイコガ、その他の動物でも同じように働いているのですね。

 まったく同じかは分かりませんが、ひじょうに似た現象が確認されています。
 多くの生物に共通する脳の仕組みやルールを把握できれば、人間がどのように進化してきたか、さらには人間が新たな能力を手に入れるためには何が必要かまで、シミュレーションで明らかにすることができるかもしれません。

カイコガの脳の研究が、新たな脳力の獲得の予測に繋がるとは思いませんでした。とても壮大な話です。

 まだ新たな脳力の獲得の予測に繋がるとは断言できませんが、繋がるはずだと考えています。そのためには、生物の脳により近い仮想脳を作らなければなりません。それは理学的に言えば「真理への到達」であり、一生を費やしても辿り着けるかどうかわからない領域です。
 私は研究者として、長い年月をかけて真理のみを追いかけ、社会に何も残さない、貢献しないということは、ひじょうに勿体ないことだと思っています。真理へ向かう道の途中には、多くの発見があるはずです。その成果を活用して世の中の役に立つ新しいものづくりを進めていくことも、研究者としての責務であると考えています。

研究者として真理を追究しながら、社会への貢献も果たす。そのバランス感が大事なのですね。

 世の中の科学技術、とくに遺伝子工学分野は加速度的に技術革新が進んでいます。昔はゲノムの解析に何年もかかっていましたが、現在では15分くらいで解析できるようになりました。今は数カ月かかる作業が、数年後には1日や半日でできるようになっているかもしれません。
 一方でどれだけ技術革新が進んでも、残り続ける技術は必ずあります。脳の研究に初めて着手する研究者や学生は、脳の神経細胞の形を知るために、必ずゴルジ染色法を使います。これは1890年~1990年にイタリアの外科医カミッロ・ゴルジが世界で初めて編み出した神経の染色方法で、いわゆる「手作業」の方法ですが、21世紀を迎えた現代でも、廃れることなく活用されています。

研究に使う機械はハイテクでも、手作業で行わなければならない部分が残っているなど、科学技術分野はハイテクとローテクが共存して上手く補い合っているのですね。それでは最後に、今後の課題と展望について教えてください。

 1つひとつの神経細胞を正確に把握するためには、現状、細胞に針を刺す方法しかありません。この技術に替わる新しい方法はまだ生み出されていないため、技術力と忍耐力が要求され,効率性も高くないので、学生に不人気です。技術が廃れてしまわないよう、必死に人材育成を行っているところです。
 遺伝子工学技術を取り入れることで、匂いセンサはかなり高性能なものが作れるようになってきました。あとはニューロンの正確なデータを1つでも多く集めて、本物の脳に少しでも近い仮想脳を作りあげること、その過程で得た成果を上手く使って社会の安全・安心作りに役立つものを生み出すことが、今の目標です。

 匂いセンサを搭載したドローンが大空を飛び、匂い源にスムーズに到達できるようになる日を楽しみにしています。本日は貴重なお話しをたくさんいただき、ありがとうございました。