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 今でも思うことがある。もしも、あのときフレティ・マホニがワールドカップに出ていたら──
 1999年、ウェールズで行なわれた第4回ワールドカップ。おそらくこの頃、一番脂が乗っていたであろうマホニの存在を「世界」が知ってしまっていたら、大会後にオファーが殺到し、瞬く間に彼はワールドクラスの仲間入りを果たしていただろう。
 しかし、マホニは母国の代表を捨てて日本に残った。足掛け8シーズン。関東社会人時代から東日本、そしてトップリーグへとセコムラグビー部を強豪に押し上げた。ラガッツがトップチームの一角を担うにまで成長を遂げた道程。
 そこには、怪物と呼ばれたトンガの英雄の足跡がくっきりと残されている。


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 2005年1月29日、セコムラガッツは名古屋市内のあるホテルに滞在していた。豊田自動織機とトップリーグ昇格を争う決戦当日の朝。バイキング形式の食事場にはマホニの姿だけがなかった。心配そうに周囲を見回す主務の田中孝文に選手、コーチとして長年接してきたコーチの斉藤政美は言った。「大丈夫。マホニならもうとっくに朝飯は済ませているよ」。
 その頃マホニ本人は一人、ホテルの周りを散歩していた。この日が現役最後の試合となるトンガの英雄は、自らのラグビー人生の集大成に、グラウンドですべてを出し切ろうと心に決めていた。選手たちと一緒に食事を取った筆者が、偶然出くわし声を掛けると「オハヨウゴザイマス」と決して聞き取りやすくはない日本語が返ってきた。そして、「ネムイネ」と親しみやすい笑顔を浮かべると大きな肩をすくめてみせた。

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マホニ選手1S  まだ書き出しなので一つだけ断っておく。筆者は全盛期のマホニを知らない。それがセコムラグビー部を追いかけるライターして、どれだけ不幸なことか分かっているつもりだ。以後の記述はすべて取材ノートから。
 今から8年前──。怪物・マホニは22歳で日本の地を踏む。セコムラグビー部でプレーするために本国から単身やってきた。当時、国内チームでオファーがあったのはセコムだけではなかった。むしろ条件面で上をいく提示を出すチームもあったという。
 そのマホニを懸命に説得し、心動かしたのは当時セコムでプレーしていたトンガの先輩、ぺニエリ・ラトゥとアリフレッティ・ファカオゴである。聞けば「あのマホニだけは敵に回したくない」という一心だけで。
 セコムにやってきた怪物はというと、それはそれは荒れていた。まず言葉が通じない。当時はまだチームも整備されていなかったため通訳もおらず、日常的なコミュニケーションすらままならない。日本のラグビーにもまったく馴染めなかった。試合では、ラフプレーを連発。「いったん暴れだすと敵、味方関係なく誰も手がつけられなかった」と同期入社の山賀敦之が振り返る。
 関連会社であるセコムテクノサービス (株)に配属され、日中は会社で働いた。主な仕事はセキュリティ機器の箱詰め。見よう見まねで覚えた漢字を駆使して、ダンボールに送り先などを書いたりもしたが「マホニの字は全然読めなくて困った(笑)」とラグビー部OBで、当時の世話係だった水越一敏氏。
 来日後に結婚したマホニは、部員が生活する狭山市内の寮(当時)から程近いアパートで妻と子を呼び寄せ、家族揃った暮らしをスタートさせた。そんな折、見知らぬ土地でストレスに苦しんでいた怪物はひょんなことから街に、大きな安全をもたらすことになる。

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マホニ選手2  全国でも有数な茶どころとして知られる狭山は当時、暴走族のふきだまりと化していた。毎晩騒ぎを起こしては、暴れ回る若者たちに住民は迷惑し頭を悩ませていた。ある夜のこと。マホニは生まれたばかりの赤ん坊の夜泣きに困っていた。やっと寝付かしてもすぐに泣き出す始末。その原因が、住んでいるアパート下にあるコンビニでたむろする暴走族の騒ぎであることは明白だった。
 マホニは、窓を開けると大声で怒鳴りつけた。しかし、チンピラは群れをなすことで気が大きくなり、一向に騒ぎをやめようとしない。我慢しかねて、そのままの格好で表に飛び出すと、たちまち5〜6人の集団に周りを囲まれた。相手の手にはナイフ。そんな絶体絶命の状況で、怪物はリーダーと思われる人物の胸ぐらをつかむと無言で睨みつけた。茶色い目をした190cmを超える大男に凄まれた暴走族は、後ずさりしながらそのまま散っていったのだった。
 かくして狭山に血は流れなかった。冗談をいっているのではない。暴力事件を起こせば、会社やラグビー部の仲間にどれだけの迷惑がかかるかを、怪物は異国の暮らしの中から学びとっていた。そしてこの頃から、マホニは日本での生活にしっかりと向き合うようになる。「あのすごいパフォーマンスは、毎日休みなく続けられたトレーニングに裏打ちされたもの」(浅野和義コーチ)。近所にある神社の石段を使った走りこみやトレーニングなど、一人で黙々と体作りに励むマホニの姿が、たびたび目撃されるようになった。

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マホニ選手3S  来日3年目。マホニのラグビー人生を左右する出来事が待ち受けていた。ワールドカップである。トンガで生まれ育ち、楕円球に触れた者ならばこそ、母国の代表として命を懸け、大舞台で戦うことは大きな夢であった。
 しかしセコムはこの年、悲願の東日本リーグ昇格を懸けた大事なシーズンを迎えていた。10代でトンガ代表に選ばれた逸材は、No.8として日本のリーグ戦でも大活躍。関東社会人レベルでは次元の違う域に達していた。「3人がかりでも止めらなかった。マホニがボールを持ったら全部トライだった」(都出清士郎)。既に、チームの大黒柱となっていたマホニなくして、東日本への昇格は考えられなかったのだ。
 会社との話し合いは1ヶ月以上にも及んだ。悩んだ末にマホニが出した答えは、セコム残留だった。夢だったワールドカップを捨て、セレクションに呼ばれたこともあるオールブラックスやワラビーズへの道と決別し、セコムを選んだのだった。
 この年、マホニの活躍もありセコムは関東社会人1部で優勝。さらには入替戦で伊勢丹を破り、東日本リーグ昇格を勝ち取った。 「でもやっぱり本人は(W杯に)出たかったと思う。しばらくは独りで泣いてました。それでも残ったのはあいつの男気ってヤツでしょうか」(山賀敦之)。
 吹っ切れた怪物はさらにパワーアップした。全国区ではなかったセコムラグビー部の中にあってマホニの存在だけが一人歩きした。左手一本でハンドオフし、あの箕内拓郎選手(NEC)を吹っ飛ばしたことで、いよいよ日本国内を震撼させる。日本に30年以上住み、楕円球競技に精通したトンガ人女性は語る。「ノフォムリやラトゥが来て以来、たくさんのトンガ人が日本にやってきてプレーしてきたけど、マホニだけは別格だったね。悪いけど、他とは比較にならないほどの選手だよ」。
 フェレティリキ・マウ選手(ワールド)やナタニエラ・オト選手(東芝府中)など、国内一線級で活躍するトンガ出身の選手たちが学生だった当時に、若干20歳で代表キャップ39を誇り、憧憬の念を抱かずにはいられなかったプレーヤー。それがマホニだったのである。

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マホニ選手4  全国区となったマホニの名。「上半身めがけていけば弾き飛ばされ、膝下を狙うとつぶされる。タックルする側としては、来るとわかっていても絶対に来てほしくない選手」(小村淳氏・当時神戸製鋼、現明大コーチ)。
 昨年のトップリーグでは、ご挨拶代わりにと、こちらもリーグを代表する凄腕助っ人であるグレン・マーシュ選手(NEC)を宙に舞わせ、マーシュ本人も思わず苦笑いを浮かべたほど。ラガッツと命名されたセコムラグビーが、NEC、サニックス、クボタから立て続けに挙げた記念すべきトップリーグ初年度の白星にも、マホニは欠かせぬ存在だった。
 スピードこそは落ちたが抜群の破壊力と、ここ一番での集中力は健在。だがそんな怪物にも今季、ついに引退の二文字が押し寄せる。若い頃からチームの柱として獅子奮迅し、その恵まれた体に頼ってラグビーに打ち込んできた代償。ボロボロになった体は悲しいかな、もう言うことを聞いてはくれなかった。
 度重なるケガもあり、出場機会が極端に減った今シーズン。出場したゲームでは存在感を示しながらもリーグ終盤で足首を捻挫し、戦線離脱。リーグ優勝の懸かった最終戦もスタンド観戦となった。クリスマス前にトンガへ帰国してしまうと、もうマホニの勇姿は見れないのかもしれない。そんな寂しさが胸をよぎった。

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 トンガに戻ったマホニは、ラグビー人生を今季限りとする決意を固め、早くも第二の人生への準備に取り掛かっていた。セコムでの8年間で蓄えた資金をバックに、コンビニを開業。冬はコーヒーショップ、夏はアイスクリームショップとの2店舗併用での自営業をスタートさせたのだ。お店の名前は茶目っ気たっぷりに「MAHO SHOP(マホ ショップ)」。
 社長へ華麗な転身を遂げた怪物。しかしながら従業員を雇っても、店の商品をくすねる人間ばかりで、店舗経営は家族だけでやっていくしかなかった。時に店番をし、車で仕入れにも出向く。日本から遠く離れた故郷で、マホニは繁忙な生活を余儀なくされていた。 その頃、ラガッツは窮地に立たされていた。トップリーグ昇格を決定付けるはずのチャレンジシリーズ初戦で、サニックスによもやの完敗。マホニのいないFWがサイズで劣る相手に徹底的に痛めつけられたのだ。暗雲立ち込めるチームにようやくマホニが合流したのは、最終戦まであと2週間と迫った日のことだった。
 だが、怪物の楕円球にかける闘志はまだ消えてはいなかった。チームに合流するや否やトレーニングを再開し、試合出場に向けた猛アピールを開始。その迫力には往年のプレーを知らない若手も怪物の凄さを肌で実感した。「いるのといないのとで全然ちがう。今年は今後を見据えた個々の強化をテーマにチームを作ってきた。外国人枠もバックスに人数を割いて。正直マホニの時代はもう終わりかなと思ってたけど・・・。帰ってきてすぐあんなプレー見せられたら。やっぱりもの凄いプレーヤーなんやと思った」(前田貴洋)。
 最終戦、指揮官の加藤尋久は、栄光の背番号8をマホニに託した。

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マホニ選手5S  悔いなくすべてを出し切る、オールアウト。何分間体がもつのかすら予見できない怪物の現役最後のゲームが始まった。キックオフ直後、いきなりイノケ・アフェアキとのコンビでピック&ゴーを繰り返し前に出る。最初からギアをトップに入れて暴れ回った。 気力、体力とも落ちることなく、後半に入っても相手を引きずりながらゲイン。後半10分前後でのメンバー交代を考えていた加藤ヘッドコーチの判断を迷わせるほどのパフォーマンスを見せつけた。
 「いつもは帰国するたびに重量オーバーで戻ってくるから、ウェイトを落とすのが大変なプレーヤーだった。でも今回はしっかりセルフコントロールできていた。自分の最後の仕事をしっかり分かっていたんだと思う」(古館昌宏チーフトレーナー)。
 渾身のタックルに、荒々しいランプレーを見せ、最後までファンを魅了し続けたマホニは後半16分、足をひきずりながらセネ・タアラとの交代でグラウンドを後にした。そして、最後の一戦まで、セコムラガッツに勝利という幸福をもたらしたのだった。
 詰めかけた応援団は来日した当時からマホニを知る人から、この日初めてラガッツのゲームを見た人まで、一様に惜しみない拍手を送り「マホニコール」はいつまでも鳴り止むことがなかった──。

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 帰国を翌日に控えた2月11日、祝日。狭山グラウンドでマホニとその家族の送別会が催された。山賀がデザインした「怪人マホーニ」と書かれたTシャツ姿で登場したマホニは、日本での最後の一日を仲間たちと思う存分に楽しんだ。その脇では7歳になる長男がやんちゃに走り回っては、大人たちをヒヤヒヤさせていた。その少年の姿に、チームメイト達は父の面影を見ずにいられなかった。「彼はいつか、恐ろしいプレーヤーになるよ。あのDNAをそっくりそのまま受け継いでいる人間だからな」。10年後、ラガッツにマホニJr.がやってくる。そんな夢物語も膨らませながら、宴は夜通し続いた。
 2次会、3次会と大好きな日本のお酒を浴びるように飲んだマホニは突然、駅前の路上で座りこむとすると、残った仲間に向かって土下座した。「イママデ、オセワニナリマシタ。アリガトウゴザイマシタ」。それは、仲間への感謝を日本ならではの形で表現しようとしたマホニなりの和の心だった。

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マホニ選手7  8年前、来日したときに107kgだったマホニの体重は、現在130kgの大台に乗っている。その愛くるしい風貌で、今や全国どこへいってもみんなに親しまれるラガッツ一の人気者にまでなった。
 「セコムラグビー部の歴史は、マホニが作ったんだよ」。
 そう声をかけられるたび、大きな図体からはおおよそ想像できない程、実は涙もろくて心優しい怪物は何度も目もとを拭った。かつて母国のラガーマンとして将来を嘱望されながら、その魂のすべてをセコムに捧げた勇敢な漢(おとこ)は12日、8年間過ごした日本に別れを告げ、第二の人生が待つ彼の南の地へと飛び立った。
[2005.2.23]
【Text by 小谷たけし】

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