SECOM RUGGUTs

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追悼寄稿

タイトル
第五章 別離
選手名鑑
 2005年8月、月刊『ラグビーマガジン』9月号付録の選手名鑑に、KooGaの新ジャージーを身にまとった元の写真が弟の知裕と仲良く並んで掲載された。病室のベッドでそれを目にした元は驚き、とても喜んだという。
 この元々の写真は2004年4月、福島県のJ-ヴィレッジで私がサイトのプロフィール用に撮影したものだ。以前のジャージーを身にまとったその写真と、KooGaジャージーを合成したものだったが「みんなオレのことを気にかけてくれて。時間掛かってもグラウンドに戻って、みんなと一緒にラグビーがやりたい」(元)。
 私が撮ったこの写真は、結果的に元の遺影の顔として使われた。何か複雑な思いではあったが、仕事柄カメラに携わる人間としては、幸せなことだと思う。ご両親からは「怒っているようにも、笑っているようにも見える。自然で元らしい表情だし、味のあるラガーマンの顔に写っている」と言っていただいた。
 『ラグマガ』が発売された後、元は一人でグラウンドに姿を見せると、「もう少し、入院が長引きそうだから、病院の周りを歩くことにしたよ」といって、アップシューズと練習着を取りに来た。とても元気そうな様子であったがこの後の2週間、元は外部の誰とも連絡を断った。
 選手名鑑を目にして、もう一度復帰へ向け心を奮い立たせた元。しかし、その直後に病院でドクターから最後通告を受けた。
 「もう治療法はない」。
 この時期に起こった出来事は、ごくごく身内の人たちにしかわからない。壮絶な苦しみがあったことだろう。

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グラウンドにて
モデル
モデル
 「兄貴、たまにはグラウンドに来ないか」。知裕がメールを送ったのは、元がそんな絶望のどん底にいるときだった。このシーズンからラガッツはWRS KooGa社とスポンサーシップを締結し、ジャージーのデザインを一新。7月に行われた記者発表では、知裕がチームのジャージーモデルを務めた。思えば、2年前、トップリーグ1年目のジャージー発表で、モデルを務めたのは兄の元だった。これも何かの縁だろうか。実に絵になる兄弟である。
 加藤ヘッドコーチは、KooGaの新ジャージー、練習着、そしてスパイクなど元の貸与品一式を揃えて「元本人に取りに来るよう言ってくれ」と知裕に伝えたのだ。
 9月2日、グラウンドに現れた元を見て、知裕は愕然とした。「顔が真っ白で、2週間前に見た兄貴とは別人だった。一体何があったんだろうって。正直、やばいんじゃないかと思った」(知裕)。
 病院を退院した元は、放射線治療のみの通院に切り替え、実家で生活しながら次の治療法を考えていた。しかし、抗癌剤の副作用で食欲は極端に落ち込み、微熱も続く状態だった。それでもグラウンドに来て、チームメートと話し込むと、元はみるみるうちに元気になった。
 グラウンドの周りを歩いて汗をいっぱいかき、そのたびに水分を摂った。仲間と話す顔はとても楽しそうで、そんな顔を見て知裕は「病院よりも、ずっとグラウンドにいる方が、もしかして兄貴の身体にとっては効果的なんじゃないか」とさえ思った。
 「おそらくこの頃ものすごく具合が悪かったはず。でも、これで自分自身まだいけると思った」(知裕)。
 帰り道、元は「トモ、ラーメン食いに行くぞ。油行こう、油」と言い出し、同じポジションの後輩・丸山隆正と3人で寮の近くにある油そば専門店『油濱』へ足を運んだ。元は機嫌よく、とても元気だった。知裕が「最近、食事もまともにしてないんだろ。そんなに食べたら気分悪くなるからやめとけよ」と言ったが「いいんだ、いいんだ。オレは今食いたい気分なんだ」と笑い飛ばし、油そばを一杯平らげてしまった。
 「あの日のことはよく覚えています。「半年ぶりだか、8ヶ月ぶりに来ました」って生沼さんから話し掛けてくれて。寮が店の近くに移って来てからは、何度かいらっしゃいました。一度、奥さんと一緒に来ていただいたこともあって。いつもは特大を召し上がるのに、あの日は並盛。病気だったことは知っていましたが、顔色がひどかったので、よくなったんですかとは聞けませんでした」(『油濱』店主・井川大助さん)。
 店を出ると、元は寮へ行き知裕の部屋で腰を下した。「医者にもう治らないって言われたよ。オレ死ぬしかないのかな」。その夜、知裕は自分の前で初めて涙を流し、泣きじゃくる兄の姿を見た。

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 翌3日、元はセコムラグビーフィールドのグランドオープンに姿を見せた。セレモニーに出席し、新しいジャージーに袖を通したが「オレだけ顔が真っ白じゃん。病人みたいで嫌だ」と元はバツの悪そうな顔でみんなと一緒の集合写真に収まった。

 (元の日記より)
<9月2日> 今日も朝から調子が悪かった。昨日加藤さんから新しい練習着ができたから取りに来いとお誘いを受けたので、17時過ぎに行った。不思議なことに、グラウンドについて新しい練習着に袖を通し、用意してもらったスパイクを1年ぶりに履いたら、嘘のように元気になってしまった。みんなからたくさんの免疫力をもらえた。ほんとに感謝です。トモの部屋でいろんな事を話した。ありがとな、ともひろ。

<9月3日> オープニングゲームを、麻里と二人で見に行った。久しぶりにラグビー部以外の人達と出会えて、またたくさんの免疫力をもらえた。試合も勝ったし、元気もいっぱいもらえたし、最高の一日だった。明日は麻里とお父さんとお母さんと4人で西武園の花火を見に行く。麻里の浴衣姿久しぶりだなー、かなり楽しみ。一つ気がかりなのは、日を重ねる事に胸が苦しくなっていくこと。月曜日の外来で聞いてみようと思う。
 日記は、この日を最後に白紙となっている。

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ブタの貯金箱
部屋
 元の両親が暮らす実家のリビングには、ピンクのブタの貯金箱が置かれている。元々は妻の麻里さんが元にプレゼントしたものだが、病気が治った暁には二人の新婚旅行の資金にと、父の真微さんが『マリ貯金』と命名して、500円、100円、50円を事ある毎に入れていた。「二人でハワイに行って、ラスベガスで遊ぶ」(元)と宣言していたハネムーン。小銭では少しの足しにしかならないのは分かっていたが、元は毎日のように中を覗いては、いくら貯まったか嬉しそうに数えていた。
 病院を出て、実家に戻った元の手足はしびれがひどく、自由が利かない状態だったが、それでもいつものように貯金箱を開けてお金を数えようとした。そのたびに上手くつかめず、硬貨は「チャリン、チャリン」と音を立ててテーブルの下に落ちた。それを拾い、また数えようとする元。何度も何度も、お金を落としては拾い、ゆっくりと数えていた。「チャリンっていうお金の落ちるあの音が、耳にこびりついて離れない」(真微さん)。
 身体は大きいが、繊細で几帳面な性格だった元。再び実家で暮らし始めても、部屋の整理を怠らなかった。元が最後に使ったままになっている部屋。本棚には子供の頃から好きだったという漫画本『はじめの一歩』がまるで本屋の店先のように1巻から順番にきれいに並べられている。

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 グラウンドを訪れてから数日、元は生きる道を探して新たなチャレンジを始めた。「残されたわずかな可能性に懸けたい」(元)。9月13日、3度目の正直。最後の望みを懸けて免疫療法に取り組み始めた。しかし衰弱が激しく、すぐに再入院の手続きを取ろうとしたが「冗談じゃねぇ、オレは帰る」と言って何度もベッドから出ようとした。「弱っていても力は強かった。あの大柄なオヤジを吹っ飛ばしていたから」(知裕)。元はすがるように言った。「トモ、ここにいたってよくならない。一緒に家に帰ろう」。
 検査の結果、既に元の肝臓は、通常の人間の倍以上に膨れ上がって肺を圧迫しており、その臓器のほとんどが癌細胞に覆い尽くされていた。前年の12月には燃えカスぐらいしか残っていなかったはずの癌細胞は、それからわずか1年も経たないうちに全身に転移していた。
 直後に容態が悪化して病院に搬送された元。14日夕刻、緊急入院。
 翌15日早朝には危険な状態だと家族から連絡を受け、知裕も病室に呼ばれた。
 駆け付けた弟の姿を見た元は「なにしに来たんだ。開幕戦メンバー入ったんだろ。お前は早く練習に戻れ」と怒鳴り、何度も追い返そうとした。最後は、呼吸をすることも、横になることもままならず、体を起こしたままの状態でベッドのテーブルに頭を乗せ丸二日過ごした。

生沼元へ
生沼 麻里

 私の人生ってなんなんだろうって思った。2年の間に母を亡くして、夫も亡くして。だけど、今こうしてゆっくりと時間を過ごしながら感じるのは、結婚生活悪いことばかりじゃなかった。楽しい時間はすごく少なかったけど、私は彼の病気を一緒に過ごすために出会って、結婚した気がして。すべて初めから決まっていたことなのかな、って思えるようになった。
 病気になったことで、おかしいけど元と一緒にいられる時間が増えた。それまでは、毎日仕事行って、練習行って。遠征行けば何週間も帰ってこないし。だから、病気になって二人で初めて旅行行ったりして、なんか普通の夫婦みたいだねって。
 6月の私の誕生日、一緒にご飯食べに行く約束をしてたけど、ちょうど検査の結果を聞きにいく日で。よくなってないことがわかって、元はひどく落ち込んだ。「やっぱり今日はご飯行く気にならない」って言われたけど、ここんとこずっと室内にこもっていたし、私も休み取って、無理やり伊豆の温泉に出掛けた。元はあのとき「お前が連れ出してくれたおかげで、気分晴れたよ。ありがとう」って言ってくれたね。
 ご両親にとっての元は息子だし、トモくんにとってはお兄さん。代わりはいないの。でも私は自分の身に起こったことは事実として受け止めて、これから先、また違う人生を歩き出さなきゃいけないんだなと思う。元がいなくなって正直、第二の人生のこと考えたら不安になる。
 でも思うのは、元と結婚してよかった。お葬式でもあんなに多くの人に惜しまれて。セコムも大東の仲間も。すごい友達に恵まれてると思った。私はこの人でよかったんだなぁってわかった。亡くなってからも、加藤さん(ヘッドコーチ)や上野さん(進)や同期のみんなも「元がいなくても、もう麻里ちゃんはオレたちのファミリーなんだから」って言ってくれた。
 いい仲間にいっぱい巡り合えたんだね。
伊豆にて
終章 エピローグ
 「あと、試合時間は何分残ってるんだ」。
 「オレは、あと、どれだけ戦えばいいんだ」。
 最後まで愛し続けたラグビーに思いを馳せた男は、唸るように喉を振り絞って呟くと、もうそれから意識が戻ることはなかった。
 「最後に一滴だけ、兄貴の目から涙が流れ落ちたんです。まるでTVドラマみたいに。あの涙が兄貴の気持ちのすべてだったと思う。悔しかったんだ」(知裕)。
 9月16日、午後10時22分。生沼元は最愛の家族に看取られながら、永遠の眠りについた。
 
.......

 翌日、トップリーグ開幕戦前夜、元の携帯電話に一通のメールが届いた。
 「明日は勝とうぜ!! お前と一緒にグラウンドでな! なっ、相棒」。
 既に元がこの世にいないことを知りながら、小池が打ったメールだった。
 「絶対勝てるから!! たのんだよ! 相棒の妻より」。
 2005年度シーズン、ラガッツはトップリーグで2勝9敗の10位に終わった。知裕は、元に代わって1年間ロックのポジションを守り、8戦の先発出場を含む9試合に出場した。

 追憶のレクイエム──。26年の生涯を閉じた元を偲んで作成された一本の追悼ビデオがある。齊藤政美コーチが手がけたこの映像は9月25日ヤマハスタジアム、10月1日秩父宮ラグビー場の観衆の前で流された。
 映像の最後には、こう綴られている。

  いつも私たちの胸に
 ─ Always in our Minds
  永遠に私たちの心に
 ─ Forever in our Hearts
  忘れはしない
 ─ Let us Never Forget
  友よ安らかに・・・
 ─ Rest in Peace Dear Friend

 元が生きて、チームに残してくれたものとは何だったのだろうか。
 「元がここにいたっていう事実。生沼元という選手がセコムラガッツにいたというまぎれもない事実。これは誰もが忘れてはいけないこと」(加藤ヘッドコーチ)。
 いまも、どこかで、元が見守っていてくれる気がする。
[2006.3.31]
【文責:小谷健志 Feat. SECOM RUGGUTs】

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