SECOM RUGGUTs

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追悼寄稿

タイトル
第四章 再発
 12月、熊谷ラグビー場で行われたトップイーストリーグ10の明治安田生命戦を元と麻里さんが観戦しに来た。ゲームでは、スタメンに抜てきされた知裕がハーフウェイ付近からボールを持って独走しながら、最後の最後で相手に追い付かれてトライできずスタンドやベンチの失笑を買ったが、ラガッツは大量108点を奪って圧倒し、元に勝利をプレゼントした。
 「お前の文章熱いよな。オレ好きだよ。こないだのジローの話とかすげぇ感動したよ。ジローがロッカーで「このゲームに命懸けてくれ」って言ったのかよ。あいつすげぇよな。いいキャプテンになったよな」(元)。
 この頃の元は、グラウンドや試合場で会うたびに私が書いた記事の話をしていた。元は自分のことのように大騒ぎして、また違う記事の話を始めた。「そういやさ、栗田戦の記事でさ。ラグビーやりたくてもできないヤツがっていうのあっただろ。あれってもしかして…」(元)。元が言わんとした記事は、リーグ3戦目の栗田工業戦。ラガッツが29−24と薄氷の勝利を収めたゲームの観戦記だった。開幕から不甲斐ない戦いが続いたチームを鼓舞しようと私があえて檄文調に書いたものだ。観戦記の最後はこう締めくくられている。
 『よもや忘れたなどと言わせない。グラウンドにも立てず、ジャージーすら纏えない仲間の存在を。好きなラグビーをやりたくてもできない人間がすぐそばにいることを』。暗に元のことを織り込んだものだったが、本人にはしっかり伝わっていたらしい。
 「もちろん元のことだよ。早く治ってチームに戻ってきてくれよ」。私が言うと、元は嬉しそうに笑顔を作った。「お前熱いな。うちの嫁なんかお前が書いたロッキーの話、パソコンで読みながら泣いてたよ。お前、オレが復活したらいい記事書いてくれよ」(元)。
嬉しい見舞い
 元には華麗な復活プランがあった。その物語を言って聞かせてくれた。「焦らず、ゆっくり気長にやるよ。治療が全部終わったら、この脂肪を落として筋肉つけて。もう一度じっくり身体作って、来年(2005年)の12月に復活する。開幕には間に合わないから、オレの出番はトップリーグの後半戦からだな。相手は、そうだな。東芝府中。後半25分にオレが登場して、トライ取って逆転でラガッツが勝つんだよ」。元は夢見る少年のように嬉しそうに話した。
 「医者にはラグビーは出来ても15分と言われていた。それ以上は身体がもたないから無理だと。でも、もっとよくなればもう少し長く出来るようになるかもしれないと信じていた」(知裕)。
 そして、元は退院して4ヶ月ぶりにチームに戻ってきた。グラウンドで元気そうにボールを放る元を見たラガッツのチーム代表者・杉町壽孝取締役相談役は、のちに「頑張っているあの姿が今も忘れられない」と語っている。

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餅つき
 年が明けた。2005年元旦。狭山のグラウンドでは部員の家族やさやまラグビースクール、ご近所の方などが集まり、餅つき大会が行われた。元もみんなと一緒に杵で餅をついた。「来週、もう一度検査をして何もなければ完治だ。そうしたら、復帰に向けてトレーニングが始められる」(元)。
 ラガッツのウェブサイト上に掲載した選手たちの新年の決意。元はそこにひと言だけ「カムバック、命を懸ける。一日一日を大切に」と記した。
 しかし──、この世に神は存在しないのか。運命の検査結果が出た2月1日、元を待っていたのは「再発、肺への転移」という宣告だった。

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 2ndオピニオン。再発した元は病院を移り、別の抗癌剤治療に切り替えた。3月に入ると発病以来、書くのをやめていた日記を付け始めた。1クールごとに医者からは「よくなってきている」と言われ、しばらくすると「やっぱりダメだった」の繰り返し。回数を重ねるごとに本当に治るのかという疑念が家族の間にも生まれてきた。若いアスリートの肉体、癌の進行は思いのほか早かった。

 (元の日記より)
<3月11日> 今回の外泊は中止になった。白血球の数値がほとんど上がらなかったため、土日も注射を打つことになった。今日はもう一つ体に変化があった。鼻血が止まらない。先生に聞くと、抗癌剤の副作用だと言われた。体の外側は元気でも、内側はボロボロになっている。正直かなりへこんだ、でも頑張る。麻里と会って少し元気になれた。

<3月31日> 今日、今までとは違う断固たる決意が自分の中に生まれた。この癌という敵に必ず勝つ。どんだけ時間が掛かったって、どんだけ抗癌剤で体がボロボロになったって、俺は逃げねーよ。勝負だこのやろー、やれるもんならやってみろよ。絶対勝つ。最近麻里が泣き虫になった様な気がする。麻里、俺はお前の為に生きるから。だから消えるわけにいかねぇんだよ。命懸けの勝負だこのやろー。

<4月20日> 朝から抗癌剤を入れた。今回はあまりきつくなかった。夕方かずくんが奥さんと子供を連れて来てくれた。あまりの可愛さに赤ちゃんが欲しくなった。夜、先生から、腫瘍マーカーが下がったと言われた。すごく嬉しかった。なぜだかわからないけど、少しずつ少しずついい方向に向かっているような気がする。頑張ろう。抗癌剤7クール目終了。

<4月26日> 先生から、腫瘍マーカーがまた上がったと言われた。連休明けにまた違う抗癌剤をやるらしい。お父さんも一緒に話を聞いていて、かなりへこんでいた。先生も悔しそうだった。俺自身も恐さや不安よりも、悔しさのほうが大きかった。今回はかなり手ごたえがあったから余計に悔しい。明後日CT検査で、日をみてPETと骨の検査をするらしい。まだまだやれるよ俺は、絶対勝つ。

父・真微さん
 「癌は今の日本にはまだ治療薬がない。だから、いいと言われるものは全部やりました。わらをもつかむ気持ちで。家族に癌患者を持つ人々の勉強会に参加し、積極的に意見交換をした。抗癌剤はいい細胞も一緒に殺してしまう。アガリスクなどのサプリメントや、2リットルで1万8千円もする水が癌に効くと聞けば、買ってきて元に飲ませたし、怪しい商品斡旋みたいなものにだって手を出しました。私たちには信じるしかなかった。有り難いと感謝して、それに飛びついていきました。神社にも毎朝お参りしました。道を歩いていて、太い木に釘が刺さっているのを見れば、それがよくないんだと思って抜こうとしたり。まだ暗い午前5時に道端の木から釘を抜こうとしているなんて、どう考えても変な人でしょ。でも、そのときは必死だった。きっと自分の息子が癌になったら、他の親御さんも同じようになると思う。川で跳んでいる魚を見れば、病気が治るよう手を合わせてお願いしたし、バイクで倒れている人が起き上がるのを見れば、あぁ元も助かると思ったりもしました」(父・真微さん)。
 そんな父子の闘病生活、真微さんが持ってくる治療法や薬には、すべて前向きに取り組んでいた元だったが、中には途中でやめてしまったものもある。呼吸法や精神治療を行う類のものがそれだ。元は発病以来、常に「ラグビーに復帰すること」を生きがいに癌と戦ってきた。だが、それにより身体と心は常に張り詰め、緊張状態にあった。「一旦戦うことをすべて忘れる、ラグビーのことを考えるのはやめる」。そうすることで、体内に緊張が解け、ポジティブな領域が広がり、身体にとって良いバランスが生まれるという考えの治療法もあった。
 病気を治すためなら、どんなものも受け入れ、取り組んできた元だが、この療法だけは「ラグビーを頭から消すなんてオレにはできない。他の治療を考えよう」とやめてしまった。

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治療
 どれだけ、ラグビーに復帰することを力にしていたとしても、あまりにも長引く入院生活に、元は度々精神的に取り乱すようになった。
 「2、3日は手が付けられないくらい荒れたこともあった。でもその後には、必ず自力で冷静さを取り戻した。こんなに辛い治療に耐えられるなら、ラグビーの練習だって大丈夫だ。オレは必ずよくなって復帰すると」(望月チームドクター)。
 病室の外で、家族が医者と話して泣いている姿を見て、心を強くした。「オレには背負うものがいっぱいあるから。負けてられない」(元)。
 元はどこまでも男だった。一人では歩けないような身体になって、麻里さんに抱えられるようになっても、トイレの前では「ここからは一人で大丈夫だ」と言って、決して妻を中へは入れなかった。病室で吐いて、身体の痛みでもがいても「情けない。こんな姿、トモには見せられない」と悔しがった。
 「すごい具合悪いときでも、看護婦さんに変な顔して笑わせたりしていて。その顔見るたびに、なんなんだろうな、この人は。自分が痛くて苦しいのに、兄貴何やってんだろうって」(知裕)。
 自分の弱い姿を仲間に見られたくなかった。だから、見舞いにもあまり来て欲しいと思わなかった。「元ちゃんは自分がこんなに辛いのに、行くと「お忙しいのにすいません」って頭下げられて。明るくて、気を遣ってくれて、逆にこっちが励まされた。病室に行くたびに「ラガッツの調子はどうですか?」っていつもチームのことや仲間のことばかり気に掛けていた」(吉村英哉チームドクター)。
 7月に行われた新たな治療では「さすがに見ていられなかった」と麻里さん。ほぼ三日間、ベッドの上で痛さのあまりのた打ち回り、出るものもないのに吐き続けた。「ハンマーで全身を殴られてるような感じ」と元本人は表現していたが、湯船に浸かった状態が一番楽だったという。このときに脱水症状を併発し、腎臓の機能はすべてやられてしまった。入院生活半ばからは、抗癌剤に加え放射線治療を並行して行うようになったが、表立った成果は見受けられなかった。
 「医者に次でダメなら、と言われたときは私自身心の中で覚悟しました。あんなに食欲があった人が食べられなくなって、あんなに力が強かった人が薬のキャップが開かないといって、私に開けさせる。こんなに大きな背中の人が日に日に弱っていく姿を見ていたら、誰にも言えなかったけど、早かれ遅かれそういうときが来るのかなと」(麻里さん)。

 (元の日記より)
<6月7日> 抗癌剤を入れた。かなりきつい。いつもより体への負担が大きいと感じた。昨日の採血で、マーカーが90まで下がったと言われた。これから上がることなく下がり続けることを信じようと思う。消灯前に望月先生が来てくれた。会社のことや結婚式のことなど病気以外に考えることが多すぎる。マジで嫌になる。今日から9クール目の抗癌剤が始まった。人生最後の抗癌剤にしたい、頑張る。

<6月26日> 今日は俺と麻里の結婚式1年記念日。去年の今日は最高に幸せだったのにな。また幸せな毎日に戻らなきゃな。今日は昨日買ってきた干物のお土産を麻里の会社の友達の家に届けにいった。みんなすごく喜んでくれた。明後日、家族を交えてこれからの治療の説明が先生からある。徹底的に話し合う。

<6月28日> 今日覚悟を決めろと先生に言われた。次の抗癌剤が効かなかったら完治は難しく5年、生きられるかわからないと言われた。頭が真っ白になった。何も考えられない。

<6月29日> 久しぶりにグラウンドに行った。みんなと久々に会って、みんな口々に元気そうでよかったとか、病気に見えないとか言ってくれた。辛かった。加藤さんに昨日先生に言われた事や今の自分の思いを話した。涙が止まらなかった。ほんとにセコムに入って良かった。
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遺影
寄せ書き
 元が亡くなってから、2ヶ月が経ったある日のこと。セコム本社の広報室に、テレビ朝日の報道番組『報道ステーション』から「生沼選手のことを番組内の企画で扱いたい」という打診があった。『さよなら』というコーナーで、その月に亡くなった有名・無名を問わず、視聴者の記憶に残る、または残しておきたい人たちを取り上げ、故人の生き様・その足跡を紹介し、死を悼むというものだ。
 広報室から話を受け、過去の放送内容に目を通しながら私は考えた。元の死は当初、癌の公表を避けたこともあり、メディアで取り上げられることはほとんどなかった。こんな生き方をした人間、ラガーマンがいたということを、もっと多くの人に知ってほしい。それはご遺族の意向でもあったし、いい機会なのではないか。
 私は、家族の意思を最優先することを条件に取材を快諾した。そして番組ディレクターに「自分も一人のスタッフとして加わるぐらいのつもりでやるから、ぜひ一緒に良いものを作りましょう」とさえ言った。
 しかし、加藤尋久ヘッドコーチには大反対された。「お前は元の何を伝えたいんだ。そもそも、お前は元の何を知ってるというんだ」。私はどこまでも浅はかだった。メディアが作り上げる生沼元という人物像。それは、我々が知っている元とは違う人間になってしまう可能性がある。加藤ヘッドコーチに限らず、ラガッツの仲間たちはどこまでも、元の存在を大切に思っていた。病気との闘いだって、すさまじいもの。それをたった数分のVTRになんかまとめてほしくない。みんなの気持ちだった。
 結局、撮影は決行された。ご両親や弟・知裕、加藤ヘッドコーチを拘束してのインタビュー、元が使っていた靴箱やロッカーなどの風景。そしてラガッツが今季トップリーグ初勝利を挙げたリコーブラックラムズ戦の様子まで、カメラには事細かな映像が収められた。これだけの内容があれば、しっかりとしたものが伝えられる。私はそう確信して放送日を待った。しかし、全国ネットで流されたオンエア映像は予定されていた内容よりも大幅にカットされたものだった。放送当日に急きょ、姉歯秀次元一級建築士らによるマンション耐震偽装問題の特集が入ってきたため、内容が変わってしまったのだ。
 淡々と元の一生を振り返り、次のコーナーへ切り替わっていった映像を見ながら、私はしばらくテレビの前から動けなかった。これで、終わりなのか。もちろん、スタッフの方たちは寝る間も惜しんで取材を重ね、良いものを作ろうと努力されていた。感謝の念は絶えないが、もう放送は終わってしまったのだ。二度と流されることはない。
 私も、この件では開幕から長い連敗に沈んでいたチームに混乱をきたした。練習風景の撮影では、カメラマンへの線引きがしっかり出来ていなかったため、明らかにいつもと違う雰囲気をフィールドに生み出してしまい、大事なゲームの直前に主力選手にケガ人を出す要因を作ってしまった。幸いにも急きょメンバー変更をしながら、ラガッツはタフな戦いぶりで、今季初勝利を飾ることができたが、チームメートや関係者には多大な迷惑や心配をかけた。この場を借りてお詫びしたい。
 報道の世界ではよくあること、そう割り切ってもあまりにも言葉足らずな映像を前に、それからしばらく、私の胸にはぽっかりと大きな穴が開いてしまった。

生沼元へ
同期前田 貴洋

 元が亡くなったというメールが届いたのはオレが入院中の夜中のことで、携帯の音が鳴ったわけでもないのにふと目が覚めて携帯を見てみると「元が亡くなりました」って書いてあって、全然長い文でもなかったのにまったく理解できんかった。
 どうせ寝ぼけて夢でも見てるんやろうと思って寝ようとしたけど、やっぱり気になってメールを読み直してみた。それでも、やっぱり書いてることの意味が理解できんかったな。それは朝起きて読み直しても同じ。何日経っても同じやったわ。
 今、考えてみればそれは当然のことで、元のことを知ってるヤツはみんなそうやったと思う。あんなに元気で強くてデカいヤツが死ぬなんて信じられるわけがないよな。
 オレが元と出会ったのは高3の9月で、高校日本代表の候補合宿。まあ、あのキャラやから目立つし「イカツいヤツやなぁ」っていうのがその時の印象。それから花園や大学の合宿なんかで会うたびに話をしていて、社会人で同じチームに。チームメートになってわかったけど、ほんまに明るくておもろくて、ラグビーが大好きで負けず嫌いで意外と几帳面できれい好きなヤツやったな。
 何か元との思い出を書こうと思ったけど、セコムに入ってからの5年間でグラウンドでも、酒の席でも元との思い出がいっぱいありすぎて次から次へと出てくるし、どれを書いたらいいかわからんわ。
 ただ一つだけ言えるのは、元と同期としてセコムでプレーできたことは幸せやったし、絶対忘れへん。一生の思い出やな。

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