SECOM RUGGUTs

メンバー紹介


追悼寄稿

タイトル生沼right1
生沼right2
ポジション
 2005年9月、セコムラガッツは大切なチームメートを失った。生沼元(以下、元)26歳。高校時代はキャプテンとしてチームを花園に導いた。大学でも活躍し、2001年セコム入社。トップリーグ元年には7試合に出場を果たす。翌年、兄を追って弟の知裕が入社。そして最愛の人・麻里さんとの結婚。これからという時、突如病魔が襲った。
 全身を蝕んでいく癌(ガン)と立ち向かい、最後までラグビーに懸けた生き様。強く、真っ直ぐに生き抜いた男の生涯、その記録の一端に触れたい。


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序章 プロローグ
 走る、走る。胸に<SECOM>のロゴが入った制服を身にまとった隊員が、昼下がりの商店街をすごい勢いで駆け抜けていく。グングンとスピードを上げると、道行く人も思わず立ち止まって振り返る。まだ若い顔立ちだが、その走りはあまりにも板に付いている。人波を掻き分け、角を曲がり、新しい路地に入ると一軒の宝石店が見えてきた。
 大きな頭をやっと覆い隠すようなヘルメットに、上半身はオペレーションベスト、左胸には無線機、そして、腰には警戒棒。ラストスパートとばかりに腕を振って走る警備員は勢いよく店内に飛び込むと、背筋を伸ばして敬礼し、従業員に向かい大声を発した。
 「警備会社のセコムです! 異常はありませんか?」

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入社1年目
 埼玉県南の玄関、人口49万人の都市・川口。2002年4月、ラグビー部員としてセコム株式会社に入社し、2年目のシーズンを迎えていた元は、この地で勤務していた。当時のラグビー部員は、ほとんどが東京や埼玉管内の事業所に配属され、練習までの時間、制服を身にまとい職務に就いていた。契約先に設置されているセキュリティ機器のメンテナンスや、契約ファイル、図面の作成などが主な仕事内容だった。
 「戻りました」。大粒の汗を拭きながら元が支社に戻ってくると、川口支社の支社長、道下健一(現西関東本部越谷支社支社長)は笑顔で出迎えた。「ご苦労さん。生沼に行ってもらってよかったよ。今、店長さんからお礼の電話を貰ったところだ」。
 通常、異常が発生すると隊員は車輌や原付バイクで現場に急行するが、支社から程なくに位置するこの宝石店までの対処要領は徒歩。この日は支社に残っていた元が駆け付けたが幸いにもお客様の操作ミスによる誤報であった。
 「こんな立派な体をした人が守っていてくれるなんてね。これなら安心して仕事ができますよ」。185cm、105kgという大柄な元が店内に突進してきたのを見て、宝石店の店長は一瞬ぽかんと口を開けて驚き、そして何よりも大きな安心感を得たのである。
 「生沼君に任せて正解だった。小谷を行かせるのとじゃ大違いだからな」。業務部隊を執り仕切る課長の新藤満(現西関東本部草加支社顧客サービス課長)も、しきりに繰り返し、その横でふて腐れる小柄な警備員の表情を見ては面白がってみせた。
 この小柄な警備員こと、筆者は同期入社である元とともに、川口支社でビートエンジニア(緊急対処員)として勤務していた。まだ私がラグビー部とは何の関わりもない警備員だった頃。そして──、まさかそれからわずか3年で、大切な友を失うことになろうとは、このときはまだ知る由もなかった。
第一章 兄弟
七五三のお祝
 生沼元は1979年1月27日、父・真微(ますみ)さん、母・恵子さんの長男として東京の下町に生まれた。その3年後に弟の知裕(ともひろ)が誕生。幼い頃から男の二人兄弟として仲良く生活してきた。両親譲りで小さい頃から大柄だった生沼兄弟。元は中学校に上がったのを期に、母親の勧めでラグビースクールに通い始める。
 「みんな小さい頃からやっていたから、初めは付いていくのが大変そうでした。でも、ああゆう性格だから、すぐに周りとも仲良くなって。不器用だけど、負けず嫌いだから、人の2倍も3倍も練習して早く追い付こうとしていました」(母・恵子さん)。
 元はすぐにラグビーにのめり込んでいった。ポジションはロック。中学、高校と進むにつれてメキメキと頭角を現し、チームの中心的な存在へと成長していった。

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高2、高3の2年連続
オール東京の遠征
 18歳の夏、高3になった元を、ラグビー漬けの生活が待っていた。2年連続花園出場をめざす名門・大東大一高の主将に任命され、高校日本代表の候補合宿では3次合宿まで帯同、オール東京のニュージーランド遠征にも召集され、休日は年間10日に満たないほどだった。
 練習で疲れた体をひきずり家に帰ってくる。兄弟二人部屋で生活していた知裕は当時を振り返って「あの頃は兄貴のことが大嫌いだった。練習から帰ってくると疲れてていつも機嫌悪いし、えばってるし。なんなんだよこの態度はって。ラグビーなんかやってるからだと思ってた」(知裕)。
 父がバスケットボールの選手だった影響もあり、知裕は中学の頃からバスケに熱中していた。九段中3年のときには、同じ地区の強豪・明治中を初めて破る快挙も成し遂げ、東京都の代表にも選ばれた。「バスケは面白かったし、ラグビーをやるなんて考えたこともなかった」(知裕)。しかし、家族とともに知裕が応援に行った1996年の第76回全国高校ラグビー都大会決勝。それは生沼兄弟にとって、忘れられないゲームとなった。
 花園出場をめざした元と大東大一高。激戦区の東京都第2地区を勝ち進んでいった。3回戦、都武蔵村山東高に89−0、準々決勝は保善高に34−32。そして、準決勝では本郷高を22−14と僅差で退け、ついに決勝の舞台にまでコマを進めた。決勝戦の相手は優勝候補の大本命、東海大菅生高。このとき、対戦相手となった菅生高にはラガッツの主将、小池善行がいた。春の試合で、大東大一高は菅生高に0−34と大敗を喫していた。「当然、花園にはオレたちが行くもんだと思っていた」(小池)。
 試合は前半から、菅生高がスピードとテンポで圧倒して、大量22点をリード。大東大一高は必死に喰らい付くも、厳しい展開に追い込まれた。そんな中、誰よりも勝利を信じて疑わなかったのはキャプテンの元だった。
 「まだいける。まだ諦めるな。最後まで走り続けろ!」(元)。生涯ロックの男が、チーム事情からラグビー人生の中で、唯一NO.8としてプレーした年だったが、元は自らボールを持って突進し、菅生高ゴールに迫った。試合途中の激しいコンタクトプレーで肋骨が折れたが、なりふり構わぬプレーで前へ出続けた。
 そんな元の気持ちが乗り移ったのか、後半に入ると徐々にゲームの流れは大東大一高に傾いていく。2分、CTB吉田真選手、6分にCTB田中洋平選手がトライを奪って4点差に追い上げると、迎えた後半14分、連続攻撃から最後はWTB屋哲郎選手がインゴール右隅にトライ。
涙の表彰式
 26−25、ついにゲームをひっくり返した。だが試合はまだ15分近く残っていた。「流れが悪くなってやばいなと感じたけど、うちにはいいキッカーがいたから。1点差なら敵陣入ってペナルティさえもらえば勝てると思っていた」(小池)。しかし、完全にリズムを崩した菅生高は自陣ゴール前に釘付けとなり、その後敵陣に入ることすらできなかった。
 最少得点差を守り抜いてのノーサイド。試合後、号泣しながら勝利者インタビューに答える元の映像は、自身人生のハイライトとなった。「兄貴は辛いことがあると、いつも一人でこのシーンを繰り返し見ていた。病気になってからもそう。諦めたら終わりだって言いながら。こんな言い方すると照れくさいけど、このときの兄貴は本当にかっこよかった。この試合見て、オレもラグビーやろうと決意したんだから」(知裕)。

生沼元へ
同期小池 善行

 都大会の決勝、あの試合はオレがラグビーに携わってきた中で、今でも一番印象に残っているし、初めて本当の敗北というものを感じたゲームだった。前半あれだけの点差を付けて、はっきり言って負ける気がしなかった。結果として負けたのは、あいつの勝ちたいって気持ちだけ。それに菅生は負けた。
 前日の新聞で「菅生にはオレ(小池)を動かさなければ勝てる」っていう元のコメントが載っていた。あいつ、記者にわざとそのことを載せてもらったって。オレへの挑戦状。そこがあいつの意気なところだよな。
 元とは高校のオール東京で一緒になって、そこから仲良くなったかな。いつも一緒にいたしね。オレにとってのあいつは、ポジションは違うけど永遠のライバル。あの決勝戦からずっとその気持ちは変わらない。いつもどっちが強いだの、弱いだのそんな話ばっかり。ノッポとか、チビとか罵り合ったり。それにオレのこと、いつも気にかけてくれた。何でも話せて、くだらないこともして。あいつがそばにいることが当たり前になってた。
 今も何かあるとオレは元と喋る。それで安心できる。いつも元のことを感じてる。オレの中で元は今も隣にいるよ。だから、オレはあいつが死んでも、一回も涙は流してない。別れたわけじゃないから。
 あいつが病気になったって知ったとき、オレは病気を恨んだな。なんでこいつにそんなって。でもそれが現実なら、オレにできることは支えることだけ。頑張れなんて言葉は掛けられないよ。あいつ、ずっと頑張ってたんだから。
 思い出は数え切れないぐらいある。沢山ありすぎて語り切れない。あいつが便所開けながらウンコするのをオレが見たり。でも、一番はあいつが病気になる直前、フィジー遠征で初めて同じ部屋になれたことかな。今、考えるとなんか複雑だな。同じ部屋とかじゃなくてもいいからもっとあいつといさせてほしかった。
 オレにとってあいつは永遠のライバル。そして相棒だよ。病院から来たメールの件名はいつも=相棒へ=だからな。
第二章 結婚
大東文化大
三洋電機戦
 大東文化大に進み、レギュラーとして活躍した元は、U-19代表にも選出された。大学4年時にはバイスキャプテンを務め、この年に入学してきた弟・知裕と初めて同じチームでプレーした。そして2001年4月、セコムに入社。大学の先輩である澤口高正や元サモア代表のセネ・タアラ、トンガ代表のイノケ・アフェアキらとのポジション争いは、当然ながらこれまで以上に熾烈を極めた。
 メンバー落ちも度々経験した。それでも腐ることなく、翌週の練習では、熱がこもった。 「人前で弱みは絶対見せないという強い気持ちを持った子だった。精神的にも、肉体的にも。痛みに強かったことが、逆に病気に気付くのを遅らせたのかもしれない」(父・真微さん)。
 入社3年目、人知れず努力を重ねた元は、ようやくレギュラーに手が届くようになった。トップリーグ元年で、7試合に出場。神戸ウィングスタジアムで行われた三洋電機ワイルドナイツ戦では、追撃ののろしを上げるトライも決めた。
 知裕は言う。「ラグビーを始めてからは一度も喧嘩しなかった。よく二人でラーメン食べてはバカ話をしていた。兄貴は何やるにしても器用じゃない。すごい努力家。兄貴と一緒にラグビーがしたくて、セコムに決めたけど、結局兄貴に追い付いたと一度も思ったことはなかった。オレにとって、兄貴はいつか絶対に越えなきゃいけないけど、多分一生越えられない存在」。
 ラーメンといえば、元はこってりしたラーメンが大好きだった。よく仕事中も「小谷、ニンニクげんこつラーメンって旨いよな。オレさぁ、真面目に働いてると無性に食べたくなるんだよ」などとこぼしていた。支社で一緒に仕事をしていた頃、私は夜勤中心の生活だったため、会社で顔を合わせるのは、勤務が入れ替わる午前中のみ。逆に夕刻、私が出社する頃には、元はもうグラウンドで汗を流している時間だった。
 私の異動が決まり、川口支社最後の勤務となった日、業務課長の新藤は「最終日ぐらい、二人で回ってこいよ」と粋な計らいを見せ、二人で契約先のシステムメンテナンスに回ることになった。「小谷とはあんまり一緒に仕事できなかったな。今日は異動祝いでオレがおごってやるよ。その代わり、本社行ってもラグビーの試合はちゃんと応援に来いよ」。
 元はその日の昼飯をご馳走してくれた。確か、ラーメンと餃子とライスだったろうか。ラーメンはチャーシュー麺の大盛りで、ライスは大ライス。あまりアスリートとしては誉められた食事ではないが、それを二人してかき込んだのを鮮明に覚えている。

生沼元へ
同期艶島 悠介

 あいつはよくオレのプレーを誉めてくれた。同期で集まっている時とかに誇らしげに語ってくれるから、恥ずかしかったけど嬉しかったのをよく覚えてる。おかげでいつも見られているんだなと思ったら、練習でも手が抜けなくて。ずいぶん成長させてもらった。お互いに「お前がやるならオレもやってやる」みたいな感じでね。
 元からは「つやの理想のロックってどんなの?」ってよく聞かれたよ。「ボールを持ったり、派手さは要らないから、硬くて強くて嫌がられる人じゃないか。オレはそんなロックにタックルいったり、オーバーされたりするのが一番嫌だよ」って答えたら「やっぱそうだよなぁ」って満足そうな顔していたな。今思えば元の追求するところと、かぶったのかもしれないね。
 オレはチームで一番、元と信頼し合っているって自負していたけど、多分みんながみんな、そんなこと思っているんじゃないかな。人を惹きつける力に秀でていたな。
 ラグビーに対して真摯に取り組める男だったよ。だから個性の強い同期の中でもいつも中心にいたし。
 もっと強く、上手くなるところを見たかったな。

結婚
 時を前後して、2003年春。この年、元は運命の人と出会うことになる。「最初に見たのは後姿だったんだけど、黒人みたいって思った。第一印象はうわぁっ、デカイって。話をして、素直に面白い人だなぁという感じだった。始めは恋愛対象じゃなかったけど」(麻里さん)。
 その後、デートを重ね、自然と付き合いを始めた二人。あるとき、グラウンドに麻里さんを連れてきた元は得意げに私に紹介してくれた。「オレの彼女、麻里っていうんだ。可愛いだろ?」。私が黙って笑っていると「おい、どうなんだよ」としつこく問い詰めてくるので「あぁ、きれいな人だね」と言った。
 すると、元は急に真面目な顔になり、声を潜めて「オレたち、実はもうすぐ結婚するんだ。麻里のお母さん、病気なんだよ。だから、これから彼女の実家で暮らすことになる。元気なうちに花嫁姿を見せてあげたいし」。二人が出会ってすぐに、麻里さんの母親は末期の癌を患っていた。余命いくばくもない身体だった。
 それでも、お互いは出会った直後から結婚を意識していた。付き合い始めて9ヶ月で入籍を済ませ、シーズンオフに予約していた式場を前倒しにして、6月には身内だけで挙式をした。元は25歳にして人生の幸せを手に入れた。
第三章 告知
真っ向相手に挑む
 元と麻里さんの新婚生活は賑やかなものだった。「その日あったこと、会社で、グラウンドで。何でも話してくれた。その代わり、練習の出来が悪かった日は元気がなくて。毎日、練習終わってグラウンド出る時に連絡くれたんだけど、「もしもし」っていう声でその日の調子がわかった。調子悪い日は食事中も静かで」(麻里さん)。
 喧嘩は毎日のようにした。見かけからはイメージしにくいが、元はきめ細やかな性格の持ち主で、気になることがあるとすぐに口に出して指摘した。
 「何でもないようなことで言ってくるから、だんだん私も腹が立ってきて言い合いになる。その辺の痴話ゲンカみたいなもの。でも元は言いたいこと言っちゃうと気が済むみたいで。自分からけしかけてきたくせにすぐに仲直りしたがる。私は気持ちが治まらないから怒っていると今度は私のこと、笑わせようとしてくるの。ここで笑っちゃったら私の負け。こんなことばっかり、飽きもせずに毎日やっていました」(麻里さん)。

生沼元へ
同期岡本 信児

 元とは前の狭山寮で隣同士の部屋だった。オレは中途で入社したけど、同期ということでタメ口で喋るようになってから仲良くなった。最初に元に持った印象はこっちがびっくりするくらいストレートだなと思ったこと。たぶんオレの友達の中で一番ストレートな性格をしている。喋るうちにそんな元の性格がすごく好きになっていった。いつだか、こいつのためなら何でもしたくなるなと思った。
 元は服が好きでお洒落だったので入社1、2年目くらいはよく買い物へ連れて行ってもらった。その頃一番行ったのが合コン。シーズンオフのときに二日続けて同じ面子で合コンしたこともあった。初日にオールして寮に帰ってちょっとだけ寝て、二日目に同じ面子、同じ店でまた合コン。違ったのは女の子だけ。あれは笑ったね。あのときはみんなヘロヘロだった。
 温泉街へ泊りがけで男女あわせて8人くらいで行ったこともあった。色々あってオレと元だけひどい二日酔いになって帰ってきたりと、とにかく飲んだ思い出は沢山ある。
 ラグビーに対する気持ちもストレートだった。そこは刺激を受けた。「モンキー熱いよな」と言ってくれたこともあって「お前もな」みたいな感じ。すごくいい仲間。
 オレが歳は三つ上なのでいつもオヤジ扱いされてからかわれた。それは、元なりのコミュニケーションの取り方で、とにかく言うことも面白かったからね。優しい部分でもあったと思う。人を飽きさせない、色んな人と話しているところを見てそう思った。
 元が癌だと聞いたときは部屋で泣いた。なんで元なんだと思った。まだ死ぬと決まったわけじゃなかったのに。でも本人が一番ショックで、頑張ろうとしているときに泣いていられないと思い直した。入院中は、見舞い行ったときのバカ話以外はなんて声掛けていいかもわからず、メールはしなかった。「頑張れ」なんて言えなかったな。
 元が亡くなったときはやっぱり泣いた。実感はなかったのになんとなく受け入れてしまったのかもしれない。今もまだ実感はわかない部分があるけど、自分にはない元の真っ直ぐさを忘れずに生きていきたいと思っている。

周囲に元気
同期では中心的存在
 元の周りにはいつも明るい空気があった。グラウンドにやってきて大きな声で喋り始めると、あっという間にそこらじゅうにいる選手を巻き込んで雰囲気は一変した。
 私自身もよくいじられたものだ。『さいたまラグビーフェスティバル』のセコムOB戦に私が出場することになったときも、ジャージーに着替えた私の姿を見て、元は大笑いして「まるでイソップだな」と言ってからかった。チームスタッフではあるが、ラグビーはずぶの素人だった私。「おめぇ、やる気だけは認めるけど、死ぬんじゃねぇぞ」(元)。
 私が裸足の上に靴を履いていれば「石田純一かよ」と言われ、黒の胸元がざっくりと開いたジャケットを着てくれば「郷ひろみみてぇだ」と言って、物真似をしたりもした。取材に手間取って、寮でうだうだしている姿を見ては、「お前、まだいたのかよ」。口調がきついので、知らない人がその光景を見れば軽くイジメに近かったが、元のことを知ってさえいれば、嫌な気はしなかった。
 2004年、この年はラガッツに弟の知裕が入社した年でもある。春のオープン戦では、初戦から元はスタメン出場が続き、心身ともに充実していた。「今年は調子がいいよ。なんかいける感じがするんだ」。私の取材にも出てくる言葉は軽快だった。その裏では「トモも入ってきたし、変なプレーはしてられない。あいつはライバルだから」とその眼光は鋭く、気持ちがみなぎっていた。
 春のプレシーズンマッチ4戦目、神戸遠征の中で行われたワールドファイティングブルとのゲームでは、大学以来となる「4番元、5番知裕」の兄弟ロックで出場を果たした。しかしラガッツは惨敗を喫し、悔しさに震えた元は翌日、狭山で行われた帝京大とのゲームにも先発出場。後半、知裕との交代で退くまで精力的に走り回った。

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海外遠征
 7月、ラガッツは創部以来2度目となる海外遠征を敢行した。ニュージーランド、フィジーへ15日間の遠征で、選手たちは海外のチームを相手に果敢に身体をぶつけていった。
 遠征では6試合を消化したが、元は全試合に出場。集大成として臨んだナンドロガプレジデントXVとのゲームでは後半から出場し、見事26−9と相手をノートライに抑えて勝利し、喜びを爆発させた。
 帰国を翌日に控えた最終日。夜のミーティングで事件は起こった。入社以来、練習での姿勢や生活態度が悪かった弟の知裕が、チームメートから厳しく叱責されたのだ。「新人はまだまだ意識が低い。結局、トモは元に甘えてるだけなんじゃないのか」。馴れ合いではなく、お互いが認め合った仲の良い兄弟。だがこのとき、元は知裕のフォローをするどころか、一緒になって知裕を罵倒した。
 「トモは仲良いヤツとばっかりつるんで、上の人間と全然コミュニケーションが取れてない。お前は自分が試合に出るためには、サワさん(澤口高正)を越えないといけないとか言ってるみたいだけど、オレや都出さん(清士郎)に勝ってからそういうこと言えよ。もう一回、考え直した方がいいんじゃないか」(元)。
 元なりに、弟の成長を考えてのことだったろうが、これにはさすがの知裕も怒り心頭だった。「ほんと、みんなの前でボロクソ言われてムカついた。そこまで言わなくてもいいだろって。ラグビーやってきて、初めて兄貴と喧嘩になって、帰国しても、ひと言も口聞かないでお互い無言だった。だから、寮に帰ってきて兄貴がトレーナールームのベッドに寝て、腰が痛いって騒いでいたときも、心配するどころか内心ざまぁねぇなと思った。まさか癌だったなんて思いもしなかったから」(知裕)。

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 帰国して3日が経過した8月5日。海外遠征中からずっと続いていた原因不明の腰痛は一向に回復せずこの日、元はとうとう会社を欠勤した。夕方「練習に行く」と言って出掛けたが、グラウンドで激しい痛みを訴え近所の病院に運ばれた。連絡を受けた麻里さんもすぐに駆け付けた。病院では色々な科のドクターが、次から次へと検査を行ったが、結局、原因がわからないまま、時間だけが過ぎていき、その日は病院で一夜を明かした。
 そして翌朝、癌の告知はあまりにもあっさりと二人の耳に届けられた。
 「ドラマみたいなのものを想像していたから。最初は意味がわからなくて。「悪性の腫瘍です」って言われて「・・・それって、癌ですか?」って聞いたら「そうです、ほっといたら死にますよ」って」(麻里さん)。そこには深刻さも、何の感情も配慮も二人には感じられなかった。事実を受け止められず、そのまま二人は黙りこくってしまった。
パソコン日記
 「そもそもこんな若い年でなるものだと思ってなかったし、まして病気なんかと無縁なイメージがあったから」(麻里さん)。重苦しい沈黙を破ったのは元のひと言だった。
 「また、ラグビーできますか?」。それを聞いた麻里さんは「あぁ、やっぱりそれなんだって思いました」。医者は二人に向かって淡々と説明した。病名は精巣腫瘍。すぐにオペが必要。ただし、抗癌剤治療を施せば、95%の確率で治る。完治すればラグビーだってできるようになる。
 医者のこの言葉を聞いて、ようやく元はしっかり癌と向き合えるようになった。

生沼元へ
同期渡邉 庸介

 元って、いつも喜怒哀楽が激しくて、そのくせ、場の雰囲気を感じて行動する繊細なとこもあって。でも本当に感動するくらい仲間思いだったな。 初めて会ったのが高校ジャパンの遠征で、東西対抗試合とかも同じチームでプレーした。その次が1年も経たずにU-19代表。このときはほんとに楽しくって、一緒にバカなことばっかりやっていたよ。それで社会人になって、まさか会社も同じとはね。さすがにビックリしたよ。セコムというチームでまた一緒にラグビーできるなんて思ってもみなかった。
 高校ジャパンのときは元も身体が締まっていて、1500m測定の記録はその当時でもずば抜けていた。オレが紅白戦のときに、強烈なタックルで「カエル」にしてやったけど。それからやたらその話題をするようになって。自分より体の小さいヤツに飛ばされたのが、本当に悔しかったって。 U-19代表のとき、オレはキャプテンだったけど、その話題をみんなに話してオレのことを立ててくれていた。このときはオレも元もロンゲ(長髪)だったな。今思うとおかしいけど、多分、同期みんなこの時代はロンゲだったはず。若かった。
 会社に入ってからは一緒のチームになってあらためて「こいつやるな」って感じた。ラグビーが上手くなりたいって気持ちをすごく持っていて、一番努力していたと思う。
 すごく不器用なヤツだけど、ものすごく一直線。ラグビー知らないオレの話なんかでも真剣に聞いてくれたし。そんでめちゃくちゃ負けず嫌い。こと勝負になると勝つまでやめないし、分が悪くても果敢に挑戦するとこなんか見ていてすごいって思ったし、尊敬できるとこかな。
 本当にもっと話をすればよかったって思う。

ボール
 こうして闘病生活は始まった。入院して二日後には即手術となり、癌細胞の摘出が行われた。元は痛みには本当に強かった。手術の後、麻里さんが病室を訪れると、元はもう目を覚まして起き上がっていて「余裕だよ」と白い歯を見せて笑った。
 「手術室に入っている間、私は外でずっと心配してたのに、拍子抜けで。やっぱり強いんだなと思った。体力もあるし。病気が治らないなんてことはまったく考えてなかった」(麻里さん)。並の人間なら、頭痛や吐き気で1週間は苦しむ抗癌剤投与にも、翌日にはケロッとした顔でご飯をおかわりし、人の2食分食べていたのが元だった。
 ただ、小さい頃からケガ一つしない男だったから、じっとして「やりたくてもできない」状況は本人にとって過酷だった。「最初のうちは早く復帰しないと、みんなに遅れを取るといって焦っていた。治療中も、僕が見舞いに行くと、筋トレやっていいですか、いつから走れますか、抗癌剤の手のしびれは完全に取れますか。癌のことよりもそんな心配ばかりしていた」(望月智之チームドクター)。
 入院以来、「ラグビーボールが欲しい」と騒いでいた元のために、麻里さんはスポーツ洋品店を探し回った挙句、ネットで購入してきてボールをプレゼントしたのだが、元は「そんなのチームに言えば、持ってきてもらえたのに」と苦笑い。それからは、病室でずっとボールをいじっては、懐かしそうにその感触を確かめていた。

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