SECOM RUGGUTs

メンバー紹介


追悼寄稿

タイトル生沼right1
生沼right2
ポジション
 2005年9月、セコムラガッツは大切なチームメートを失った。生沼元(以下、元)26歳。高校時代はキャプテンとしてチームを花園に導いた。大学でも活躍し、2001年セコム入社。トップリーグ元年には7試合に出場を果たす。翌年、兄を追って弟の知裕が入社。そして最愛の人・麻里さんとの結婚。これからという時、突如病魔が襲った。
 全身を蝕んでいく癌(ガン)と立ち向かい、最後までラグビーに懸けた生き様。強く、真っ直ぐに生き抜いた男の生涯、その記録の一端に触れたい。


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序章 プロローグ
 走る、走る。胸に<SECOM>のロゴが入った制服を身にまとった隊員が、昼下がりの商店街をすごい勢いで駆け抜けていく。グングンとスピードを上げると、道行く人も思わず立ち止まって振り返る。まだ若い顔立ちだが、その走りはあまりにも板に付いている。人波を掻き分け、角を曲がり、新しい路地に入ると一軒の宝石店が見えてきた。
 大きな頭をやっと覆い隠すようなヘルメットに、上半身はオペレーションベスト、左胸には無線機、そして、腰には警戒棒。ラストスパートとばかりに腕を振って走る警備員は勢いよく店内に飛び込むと、背筋を伸ばして敬礼し、従業員に向かい大声を発した。
 「警備会社のセコムです! 異常はありませんか?」

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入社1年目
 埼玉県南の玄関、人口49万人の都市・川口。2002年4月、ラグビー部員としてセコム株式会社に入社し、2年目のシーズンを迎えていた元は、この地で勤務していた。当時のラグビー部員は、ほとんどが東京や埼玉管内の事業所に配属され、練習までの時間、制服を身にまとい職務に就いていた。契約先に設置されているセキュリティ機器のメンテナンスや、契約ファイル、図面の作成などが主な仕事内容だった。
 「戻りました」。大粒の汗を拭きながら元が支社に戻ってくると、川口支社の支社長、道下健一(現西関東本部越谷支社支社長)は笑顔で出迎えた。「ご苦労さん。生沼に行ってもらってよかったよ。今、店長さんからお礼の電話を貰ったところだ」。
 通常、異常が発生すると隊員は車輌や原付バイクで現場に急行するが、支社から程なくに位置するこの宝石店までの対処要領は徒歩。この日は支社に残っていた元が駆け付けたが幸いにもお客様の操作ミスによる誤報であった。
 「こんな立派な体をした人が守っていてくれるなんてね。これなら安心して仕事ができますよ」。185cm、105kgという大柄な元が店内に突進してきたのを見て、宝石店の店長は一瞬ぽかんと口を開けて驚き、そして何よりも大きな安心感を得たのである。
 「生沼君に任せて正解だった。小谷を行かせるのとじゃ大違いだからな」。業務部隊を執り仕切る課長の新藤満(現西関東本部草加支社顧客サービス課長)も、しきりに繰り返し、その横でふて腐れる小柄な警備員の表情を見ては面白がってみせた。
 この小柄な警備員こと、筆者は同期入社である元とともに、川口支社でビートエンジニア(緊急対処員)として勤務していた。まだ私がラグビー部とは何の関わりもない警備員だった頃。そして──、まさかそれからわずか3年で、大切な友を失うことになろうとは、このときはまだ知る由もなかった。
第一章 兄弟
七五三のお祝
 生沼元は1979年1月27日、父・真微(ますみ)さん、母・恵子さんの長男として東京の下町に生まれた。その3年後に弟の知裕(ともひろ)が誕生。幼い頃から男の二人兄弟として仲良く生活してきた。両親譲りで小さい頃から大柄だった生沼兄弟。元は中学校に上がったのを期に、母親の勧めでラグビースクールに通い始める。
 「みんな小さい頃からやっていたから、初めは付いていくのが大変そうでした。でも、ああゆう性格だから、すぐに周りとも仲良くなって。不器用だけど、負けず嫌いだから、人の2倍も3倍も練習して早く追い付こうとしていました」(母・恵子さん)。
 元はすぐにラグビーにのめり込んでいった。ポジションはロック。中学、高校と進むにつれてメキメキと頭角を現し、チームの中心的な存在へと成長していった。

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高2、高3の2年連続
オール東京の遠征
 18歳の夏、高3になった元を、ラグビー漬けの生活が待っていた。2年連続花園出場をめざす名門・大東大一高の主将に任命され、高校日本代表の候補合宿では3次合宿まで帯同、オール東京のニュージーランド遠征にも召集され、休日は年間10日に満たないほどだった。
 練習で疲れた体をひきずり家に帰ってくる。兄弟二人部屋で生活していた知裕は当時を振り返って「あの頃は兄貴のことが大嫌いだった。練習から帰ってくると疲れてていつも機嫌悪いし、えばってるし。なんなんだよこの態度はって。ラグビーなんかやってるからだと思ってた」(知裕)。
 父がバスケットボールの選手だった影響もあり、知裕は中学の頃からバスケに熱中していた。九段中3年のときには、同じ地区の強豪・明治中を初めて破る快挙も成し遂げ、東京都の代表にも選ばれた。「バスケは面白かったし、ラグビーをやるなんて考えたこともなかった」(知裕)。しかし、家族とともに知裕が応援に行った1996年の第76回全国高校ラグビー都大会決勝。それは生沼兄弟にとって、忘れられないゲームとなった。
 花園出場をめざした元と大東大一高。激戦区の東京都第2地区を勝ち進んでいった。3回戦、都武蔵村山東高に89−0、準々決勝は保善高に34−32。そして、準決勝では本郷高を22−14と僅差で退け、ついに決勝の舞台にまでコマを進めた。決勝戦の相手は優勝候補の大本命、東海大菅生高。このとき、対戦相手となった菅生高にはラガッツの主将、小池善行がいた。春の試合で、大東大一高は菅生高に0−34と大敗を喫していた。「当然、花園にはオレたちが行くもんだと思っていた」(小池)。
 試合は前半から、菅生高がスピードとテンポで圧倒して、大量22点をリード。大東大一高は必死に喰らい付くも、厳しい展開に追い込まれた。そんな中、誰よりも勝利を信じて疑わなかったのはキャプテンの元だった。
 「まだいける。まだ諦めるな。最後まで走り続けろ!」(元)。生涯ロックの男が、チーム事情からラグビー人生の中で、唯一NO.8としてプレーした年だったが、元は自らボールを持って突進し、菅生高ゴールに迫った。試合途中の激しいコンタクトプレーで肋骨が折れたが、なりふり構わぬプレーで前へ出続けた。
 そんな元の気持ちが乗り移ったのか、後半に入ると徐々にゲームの流れは大東大一高に傾いていく。2分、CTB吉田真選手、6分にCTB田中洋平選手がトライを奪って4点差に追い上げると、迎えた後半14分、連続攻撃から最後はWTB屋哲郎選手がインゴール右隅にトライ。
涙の表彰式
 26−25、ついにゲームをひっくり返した。だが試合はまだ15分近く残っていた。「流れが悪くなってやばいなと感じたけど、うちにはいいキッカーがいたから。1点差なら敵陣入ってペナルティさえもらえば勝てると思っていた」(小池)。しかし、完全にリズムを崩した菅生高は自陣ゴール前に釘付けとなり、その後敵陣に入ることすらできなかった。
 最少得点差を守り抜いてのノーサイド。試合後、号泣しながら勝利者インタビューに答える元の映像は、自身人生のハイライトとなった。「兄貴は辛いことがあると、いつも一人でこのシーンを繰り返し見ていた。病気になってからもそう。諦めたら終わりだって言いながら。こんな言い方すると照れくさいけど、このときの兄貴は本当にかっこよかった。この試合見て、オレもラグビーやろうと決意したんだから」(知裕)。

生沼元へ
同期小池 善行

 都大会の決勝、あの試合はオレがラグビーに携わってきた中で、今でも一番印象に残っているし、初めて本当の敗北というものを感じたゲームだった。前半あれだけの点差を付けて、はっきり言って負ける気がしなかった。結果として負けたのは、あいつの勝ちたいって気持ちだけ。それに菅生は負けた。
 前日の新聞で「菅生にはオレ(小池)を動かさなければ勝てる」っていう元のコメントが載っていた。あいつ、記者にわざとそのことを載せてもらったって。オレへの挑戦状。そこがあいつの意気なところだよな。
 元とは高校のオール東京で一緒になって、そこから仲良くなったかな。いつも一緒にいたしね。オレにとってのあいつは、ポジションは違うけど永遠のライバル。あの決勝戦からずっとその気持ちは変わらない。いつもどっちが強いだの、弱いだのそんな話ばっかり。ノッポとか、チビとか罵り合ったり。それにオレのこと、いつも気にかけてくれた。何でも話せて、くだらないこともして。あいつがそばにいることが当たり前になってた。
 今も何かあるとオレは元と喋る。それで安心できる。いつも元のことを感じてる。オレの中で元は今も隣にいるよ。だから、オレはあいつが死んでも、一回も涙は流してない。別れたわけじゃないから。
 あいつが病気になったって知ったとき、オレは病気を恨んだな。なんでこいつにそんなって。でもそれが現実なら、オレにできることは支えることだけ。頑張れなんて言葉は掛けられないよ。あいつ、ずっと頑張ってたんだから。
 思い出は数え切れないぐらいある。沢山ありすぎて語り切れない。あいつが便所開けながらウンコするのをオレが見たり。でも、一番はあいつが病気になる直前、フィジー遠征で初めて同じ部屋になれたことかな。今、考えるとなんか複雑だな。同じ部屋とかじゃなくてもいいからもっとあいつといさせてほしかった。
 オレにとってあいつは永遠のライバル。そして相棒だよ。病院から来たメールの件名はいつも=相棒へ=だからな。
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第二章 結婚
大東文化大
三洋電機戦
 大東文化大に進み、レギュラーとして活躍した元は、U-19代表にも選出された。大学4年時にはバイスキャプテンを務め、この年に入学してきた弟・知裕と初めて同じチームでプレーした。そして2001年4月、セコムに入社。大学の先輩である澤口高正や元サモア代表のセネ・タアラ、トンガ代表のイノケ・アフェアキらとのポジション争いは、当然ながらこれまで以上に熾烈を極めた。
 メンバー落ちも度々経験した。それでも腐ることなく、翌週の練習では、熱がこもった。 「人前で弱みは絶対見せないという強い気持ちを持った子だった。精神的にも、肉体的にも。痛みに強かったことが、逆に病気に気付くのを遅らせたのかもしれない」(父・真微さん)。
 入社3年目、人知れず努力を重ねた元は、ようやくレギュラーに手が届くようになった。トップリーグ元年で、7試合に出場。神戸ウィングスタジアムで行われた三洋電機ワイルドナイツ戦では、追撃ののろしを上げるトライも決めた。
 知裕は言う。「ラグビーを始めてからは一度も喧嘩しなかった。よく二人でラーメン食べてはバカ話をしていた。兄貴は何やるにしても器用じゃない。すごい努力家。兄貴と一緒にラグビーがしたくて、セコムに決めたけど、結局兄貴に追い付いたと一度も思ったことはなかった。オレにとって、兄貴はいつか絶対に越えなきゃいけないけど、多分一生越えられない存在」。
 ラーメンといえば、元はこってりしたラーメンが大好きだった。よく仕事中も「小谷、ニンニクげんこつラーメンって旨いよな。オレさぁ、真面目に働いてると無性に食べたくなるんだよ」などとこぼしていた。支社で一緒に仕事をしていた頃、私は夜勤中心の生活だったため、会社で顔を合わせるのは、勤務が入れ替わる午前中のみ。逆に夕刻、私が出社する頃には、元はもうグラウンドで汗を流している時間だった。
 私の異動が決まり、川口支社最後の勤務となった日、業務課長の新藤は「最終日ぐらい、二人で回ってこいよ」と粋な計らいを見せ、二人で契約先のシステムメンテナンスに回ることになった。「小谷とはあんまり一緒に仕事できなかったな。今日は異動祝いでオレがおごってやるよ。その代わり、本社行ってもラグビーの試合はちゃんと応援に来いよ」。
 元はその日の昼飯をご馳走してくれた。確か、ラーメンと餃子とライスだったろうか。ラーメンはチャーシュー麺の大盛りで、ライスは大ライス。あまりアスリートとしては誉められた食事ではないが、それを二人してかき込んだのを鮮明に覚えている。

生沼元へ
同期艶島 悠介

 あいつはよくオレのプレーを誉めてくれた。同期で集まっている時とかに誇らしげに語ってくれるから、恥ずかしかったけど嬉しかったのをよく覚えてる。おかげでいつも見られているんだなと思ったら、練習でも手が抜けなくて。ずいぶん成長させてもらった。お互いに「お前がやるならオレもやってやる」みたいな感じでね。
 元からは「つやの理想のロックってどんなの?」ってよく聞かれたよ。「ボールを持ったり、派手さは要らないから、硬くて強くて嫌がられる人じゃないか。オレはそんなロックにタックルいったり、オーバーされたりするのが一番嫌だよ」って答えたら「やっぱそうだよなぁ」って満足そうな顔していたな。今思えば元の追求するところと、かぶったのかもしれないね。
 オレはチームで一番、元と信頼し合っているって自負していたけど、多分みんながみんな、そんなこと思っているんじゃないかな。人を惹きつける力に秀でていたな。
 ラグビーに対して真摯に取り組める男だったよ。だから個性の強い同期の中でもいつも中心にいたし。
 もっと強く、上手くなるところを見たかったな。

結婚
 時を前後して、2003年春。この年、元は運命の人と出会うことになる。「最初に見たのは後姿だったんだけど、黒人みたいって思った。第一印象はうわぁっ、デカイって。話をして、素直に面白い人だなぁという感じだった。始めは恋愛対象じゃなかったけど」(麻里さん)。
 その後、デートを重ね、自然と付き合いを始めた二人。あるとき、グラウンドに麻里さんを連れてきた元は得意げに私に紹介してくれた。「オレの彼女、麻里っていうんだ。可愛いだろ?」。私が黙って笑っていると「おい、どうなんだよ」としつこく問い詰めてくるので「あぁ、きれいな人だね」と言った。
 すると、元は急に真面目な顔になり、声を潜めて「オレたち、実はもうすぐ結婚するんだ。麻里のお母さん、病気なんだよ。だから、これから彼女の実家で暮らすことになる。元気なうちに花嫁姿を見せてあげたいし」。二人が出会ってすぐに、麻里さんの母親は末期の癌を患っていた。余命いくばくもない身体だった。
 それでも、お互いは出会った直後から結婚を意識していた。付き合い始めて9ヶ月で入籍を済ませ、シーズンオフに予約していた式場を前倒しにして、6月には身内だけで挙式をした。元は25歳にして人生の幸せを手に入れた。
第三章 告知
真っ向相手に挑む
 元と麻里さんの新婚生活は賑やかなものだった。「その日あったこと、会社で、グラウンドで。何でも話してくれた。その代わり、練習の出来が悪かった日は元気がなくて。毎日、練習終わってグラウンド出る時に連絡くれたんだけど、「もしもし」っていう声でその日の調子がわかった。調子悪い日は食事中も静かで」(麻里さん)。
 喧嘩は毎日のようにした。見かけからはイメージしにくいが、元はきめ細やかな性格の持ち主で、気になることがあるとすぐに口に出して指摘した。
 「何でもないようなことで言ってくるから、だんだん私も腹が立ってきて言い合いになる。その辺の痴話ゲンカみたいなもの。でも元は言いたいこと言っちゃうと気が済むみたいで。自分からけしかけてきたくせにすぐに仲直りしたがる。私は気持ちが治まらないから怒っていると今度は私のこと、笑わせようとしてくるの。ここで笑っちゃったら私の負け。こんなことばっかり、飽きもせずに毎日やっていました」(麻里さん)。

生沼元へ
同期岡本 信児

 元とは前の狭山寮で隣同士の部屋だった。オレは中途で入社したけど、同期ということでタメ口で喋るようになってから仲良くなった。最初に元に持った印象はこっちがびっくりするくらいストレートだなと思ったこと。たぶんオレの友達の中で一番ストレートな性格をしている。喋るうちにそんな元の性格がすごく好きになっていった。いつだか、こいつのためなら何でもしたくなるなと思った。
 元は服が好きでお洒落だったので入社1、2年目くらいはよく買い物へ連れて行ってもらった。その頃一番行ったのが合コン。シーズンオフのときに二日続けて同じ面子で合コンしたこともあった。初日にオールして寮に帰ってちょっとだけ寝て、二日目に同じ面子、同じ店でまた合コン。違ったのは女の子だけ。あれは笑ったね。あのときはみんなヘロヘロだった。
 温泉街へ泊りがけで男女あわせて8人くらいで行ったこともあった。色々あってオレと元だけひどい二日酔いになって帰ってきたりと、とにかく飲んだ思い出は沢山ある。
 ラグビーに対する気持ちもストレートだった。そこは刺激を受けた。「モンキー熱いよな」と言ってくれたこともあって「お前もな」みたいな感じ。すごくいい仲間。
 オレが歳は三つ上なのでいつもオヤジ扱いされてからかわれた。それは、元なりのコミュニケーションの取り方で、とにかく言うことも面白かったからね。優しい部分でもあったと思う。人を飽きさせない、色んな人と話しているところを見てそう思った。
 元が癌だと聞いたときは部屋で泣いた。なんで元なんだと思った。まだ死ぬと決まったわけじゃなかったのに。でも本人が一番ショックで、頑張ろうとしているときに泣いていられないと思い直した。入院中は、見舞い行ったときのバカ話以外はなんて声掛けていいかもわからず、メールはしなかった。「頑張れ」なんて言えなかったな。
 元が亡くなったときはやっぱり泣いた。実感はなかったのになんとなく受け入れてしまったのかもしれない。今もまだ実感はわかない部分があるけど、自分にはない元の真っ直ぐさを忘れずに生きていきたいと思っている。

周囲に元気
同期では中心的存在
 元の周りにはいつも明るい空気があった。グラウンドにやってきて大きな声で喋り始めると、あっという間にそこらじゅうにいる選手を巻き込んで雰囲気は一変した。
 私自身もよくいじられたものだ。『さいたまラグビーフェスティバル』のセコムOB戦に私が出場することになったときも、ジャージーに着替えた私の姿を見て、元は大笑いして「まるでイソップだな」と言ってからかった。チームスタッフではあるが、ラグビーはずぶの素人だった私。「おめぇ、やる気だけは認めるけど、死ぬんじゃねぇぞ」(元)。
 私が裸足の上に靴を履いていれば「石田純一かよ」と言われ、黒の胸元がざっくりと開いたジャケットを着てくれば「郷ひろみみてぇだ」と言って、物真似をしたりもした。取材に手間取って、寮でうだうだしている姿を見ては、「お前、まだいたのかよ」。口調がきついので、知らない人がその光景を見れば軽くイジメに近かったが、元のことを知ってさえいれば、嫌な気はしなかった。
 2004年、この年はラガッツに弟の知裕が入社した年でもある。春のオープン戦では、初戦から元はスタメン出場が続き、心身ともに充実していた。「今年は調子がいいよ。なんかいける感じがするんだ」。私の取材にも出てくる言葉は軽快だった。その裏では「トモも入ってきたし、変なプレーはしてられない。あいつはライバルだから」とその眼光は鋭く、気持ちがみなぎっていた。
 春のプレシーズンマッチ4戦目、神戸遠征の中で行われたワールドファイティングブルとのゲームでは、大学以来となる「4番元、5番知裕」の兄弟ロックで出場を果たした。しかしラガッツは惨敗を喫し、悔しさに震えた元は翌日、狭山で行われた帝京大とのゲームにも先発出場。後半、知裕との交代で退くまで精力的に走り回った。

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海外遠征
 7月、ラガッツは創部以来2度目となる海外遠征を敢行した。ニュージーランド、フィジーへ15日間の遠征で、選手たちは海外のチームを相手に果敢に身体をぶつけていった。
 遠征では6試合を消化したが、元は全試合に出場。集大成として臨んだナンドロガプレジデントXVとのゲームでは後半から出場し、見事26−9と相手をノートライに抑えて勝利し、喜びを爆発させた。
 帰国を翌日に控えた最終日。夜のミーティングで事件は起こった。入社以来、練習での姿勢や生活態度が悪かった弟の知裕が、チームメートから厳しく叱責されたのだ。「新人はまだまだ意識が低い。結局、トモは元に甘えてるだけなんじゃないのか」。馴れ合いではなく、お互いが認め合った仲の良い兄弟。だがこのとき、元は知裕のフォローをするどころか、一緒になって知裕を罵倒した。
 「トモは仲良いヤツとばっかりつるんで、上の人間と全然コミュニケーションが取れてない。お前は自分が試合に出るためには、サワさん(澤口高正)を越えないといけないとか言ってるみたいだけど、オレや都出さん(清士郎)に勝ってからそういうこと言えよ。もう一回、考え直した方がいいんじゃないか」(元)。
 元なりに、弟の成長を考えてのことだったろうが、これにはさすがの知裕も怒り心頭だった。「ほんと、みんなの前でボロクソ言われてムカついた。そこまで言わなくてもいいだろって。ラグビーやってきて、初めて兄貴と喧嘩になって、帰国しても、ひと言も口聞かないでお互い無言だった。だから、寮に帰ってきて兄貴がトレーナールームのベッドに寝て、腰が痛いって騒いでいたときも、心配するどころか内心ざまぁねぇなと思った。まさか癌だったなんて思いもしなかったから」(知裕)。

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 帰国して3日が経過した8月5日。海外遠征中からずっと続いていた原因不明の腰痛は一向に回復せずこの日、元はとうとう会社を欠勤した。夕方「練習に行く」と言って出掛けたが、グラウンドで激しい痛みを訴え近所の病院に運ばれた。連絡を受けた麻里さんもすぐに駆け付けた。病院では色々な科のドクターが、次から次へと検査を行ったが、結局、原因がわからないまま、時間だけが過ぎていき、その日は病院で一夜を明かした。
 そして翌朝、癌の告知はあまりにもあっさりと二人の耳に届けられた。
 「ドラマみたいなのものを想像していたから。最初は意味がわからなくて。「悪性の腫瘍です」って言われて「・・・それって、癌ですか?」って聞いたら「そうです、ほっといたら死にますよ」って」(麻里さん)。そこには深刻さも、何の感情も配慮も二人には感じられなかった。事実を受け止められず、そのまま二人は黙りこくってしまった。
パソコン日記
 「そもそもこんな若い年でなるものだと思ってなかったし、まして病気なんかと無縁なイメージがあったから」(麻里さん)。重苦しい沈黙を破ったのは元のひと言だった。
 「また、ラグビーできますか?」。それを聞いた麻里さんは「あぁ、やっぱりそれなんだって思いました」。医者は二人に向かって淡々と説明した。病名は精巣腫瘍。すぐにオペが必要。ただし、抗癌剤治療を施せば、95%の確率で治る。完治すればラグビーだってできるようになる。
 医者のこの言葉を聞いて、ようやく元はしっかり癌と向き合えるようになった。

生沼元へ
同期渡邉 庸介

 元って、いつも喜怒哀楽が激しくて、そのくせ、場の雰囲気を感じて行動する繊細なとこもあって。でも本当に感動するくらい仲間思いだったな。 初めて会ったのが高校ジャパンの遠征で、東西対抗試合とかも同じチームでプレーした。その次が1年も経たずにU-19代表。このときはほんとに楽しくって、一緒にバカなことばっかりやっていたよ。それで社会人になって、まさか会社も同じとはね。さすがにビックリしたよ。セコムというチームでまた一緒にラグビーできるなんて思ってもみなかった。
 高校ジャパンのときは元も身体が締まっていて、1500m測定の記録はその当時でもずば抜けていた。オレが紅白戦のときに、強烈なタックルで「カエル」にしてやったけど。それからやたらその話題をするようになって。自分より体の小さいヤツに飛ばされたのが、本当に悔しかったって。 U-19代表のとき、オレはキャプテンだったけど、その話題をみんなに話してオレのことを立ててくれていた。このときはオレも元もロンゲ(長髪)だったな。今思うとおかしいけど、多分、同期みんなこの時代はロンゲだったはず。若かった。
 会社に入ってからは一緒のチームになってあらためて「こいつやるな」って感じた。ラグビーが上手くなりたいって気持ちをすごく持っていて、一番努力していたと思う。
 すごく不器用なヤツだけど、ものすごく一直線。ラグビー知らないオレの話なんかでも真剣に聞いてくれたし。そんでめちゃくちゃ負けず嫌い。こと勝負になると勝つまでやめないし、分が悪くても果敢に挑戦するとこなんか見ていてすごいって思ったし、尊敬できるとこかな。
 本当にもっと話をすればよかったって思う。

ボール
 こうして闘病生活は始まった。入院して二日後には即手術となり、癌細胞の摘出が行われた。元は痛みには本当に強かった。手術の後、麻里さんが病室を訪れると、元はもう目を覚まして起き上がっていて「余裕だよ」と白い歯を見せて笑った。
 「手術室に入っている間、私は外でずっと心配してたのに、拍子抜けで。やっぱり強いんだなと思った。体力もあるし。病気が治らないなんてことはまったく考えてなかった」(麻里さん)。並の人間なら、頭痛や吐き気で1週間は苦しむ抗癌剤投与にも、翌日にはケロッとした顔でご飯をおかわりし、人の2食分食べていたのが元だった。
 ただ、小さい頃からケガ一つしない男だったから、じっとして「やりたくてもできない」状況は本人にとって過酷だった。「最初のうちは早く復帰しないと、みんなに遅れを取るといって焦っていた。治療中も、僕が見舞いに行くと、筋トレやっていいですか、いつから走れますか、抗癌剤の手のしびれは完全に取れますか。癌のことよりもそんな心配ばかりしていた」(望月智之チームドクター)。
 入院以来、「ラグビーボールが欲しい」と騒いでいた元のために、麻里さんはスポーツ洋品店を探し回った挙句、ネットで購入してきてボールをプレゼントしたのだが、元は「そんなのチームに言えば、持ってきてもらえたのに」と苦笑い。それからは、病室でずっとボールをいじっては、懐かしそうにその感触を確かめていた。
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第四章 再発
 12月、熊谷ラグビー場で行われたトップイーストリーグ10の明治安田生命戦を元と麻里さんが観戦しに来た。ゲームでは、スタメンに抜てきされた知裕がハーフウェイ付近からボールを持って独走しながら、最後の最後で相手に追い付かれてトライできずスタンドやベンチの失笑を買ったが、ラガッツは大量108点を奪って圧倒し、元に勝利をプレゼントした。
 「お前の文章熱いよな。オレ好きだよ。こないだのジローの話とかすげぇ感動したよ。ジローがロッカーで「このゲームに命懸けてくれ」って言ったのかよ。あいつすげぇよな。いいキャプテンになったよな」(元)。
 この頃の元は、グラウンドや試合場で会うたびに私が書いた記事の話をしていた。元は自分のことのように大騒ぎして、また違う記事の話を始めた。「そういやさ、栗田戦の記事でさ。ラグビーやりたくてもできないヤツがっていうのあっただろ。あれってもしかして…」(元)。元が言わんとした記事は、リーグ3戦目の栗田工業戦。ラガッツが29−24と薄氷の勝利を収めたゲームの観戦記だった。開幕から不甲斐ない戦いが続いたチームを鼓舞しようと私があえて檄文調に書いたものだ。観戦記の最後はこう締めくくられている。
 『よもや忘れたなどと言わせない。グラウンドにも立てず、ジャージーすら纏えない仲間の存在を。好きなラグビーをやりたくてもできない人間がすぐそばにいることを』。暗に元のことを織り込んだものだったが、本人にはしっかり伝わっていたらしい。
 「もちろん元のことだよ。早く治ってチームに戻ってきてくれよ」。私が言うと、元は嬉しそうに笑顔を作った。「お前熱いな。うちの嫁なんかお前が書いたロッキーの話、パソコンで読みながら泣いてたよ。お前、オレが復活したらいい記事書いてくれよ」(元)。
嬉しい見舞い
 元には華麗な復活プランがあった。その物語を言って聞かせてくれた。「焦らず、ゆっくり気長にやるよ。治療が全部終わったら、この脂肪を落として筋肉つけて。もう一度じっくり身体作って、来年(2005年)の12月に復活する。開幕には間に合わないから、オレの出番はトップリーグの後半戦からだな。相手は、そうだな。東芝府中。後半25分にオレが登場して、トライ取って逆転でラガッツが勝つんだよ」。元は夢見る少年のように嬉しそうに話した。
 「医者にはラグビーは出来ても15分と言われていた。それ以上は身体がもたないから無理だと。でも、もっとよくなればもう少し長く出来るようになるかもしれないと信じていた」(知裕)。
 そして、元は退院して4ヶ月ぶりにチームに戻ってきた。グラウンドで元気そうにボールを放る元を見たラガッツのチーム代表者・杉町壽孝取締役相談役は、のちに「頑張っているあの姿が今も忘れられない」と語っている。

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餅つき
 年が明けた。2005年元旦。狭山のグラウンドでは部員の家族やさやまラグビースクール、ご近所の方などが集まり、餅つき大会が行われた。元もみんなと一緒に杵で餅をついた。「来週、もう一度検査をして何もなければ完治だ。そうしたら、復帰に向けてトレーニングが始められる」(元)。
 ラガッツのウェブサイト上に掲載した選手たちの新年の決意。元はそこにひと言だけ「カムバック、命を懸ける。一日一日を大切に」と記した。
 しかし──、この世に神は存在しないのか。運命の検査結果が出た2月1日、元を待っていたのは「再発、肺への転移」という宣告だった。

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 2ndオピニオン。再発した元は病院を移り、別の抗癌剤治療に切り替えた。3月に入ると発病以来、書くのをやめていた日記を付け始めた。1クールごとに医者からは「よくなってきている」と言われ、しばらくすると「やっぱりダメだった」の繰り返し。回数を重ねるごとに本当に治るのかという疑念が家族の間にも生まれてきた。若いアスリートの肉体、癌の進行は思いのほか早かった。

 (元の日記より)
<3月11日> 今回の外泊は中止になった。白血球の数値がほとんど上がらなかったため、土日も注射を打つことになった。今日はもう一つ体に変化があった。鼻血が止まらない。先生に聞くと、抗癌剤の副作用だと言われた。体の外側は元気でも、内側はボロボロになっている。正直かなりへこんだ、でも頑張る。麻里と会って少し元気になれた。

<3月31日> 今日、今までとは違う断固たる決意が自分の中に生まれた。この癌という敵に必ず勝つ。どんだけ時間が掛かったって、どんだけ抗癌剤で体がボロボロになったって、俺は逃げねーよ。勝負だこのやろー、やれるもんならやってみろよ。絶対勝つ。最近麻里が泣き虫になった様な気がする。麻里、俺はお前の為に生きるから。だから消えるわけにいかねぇんだよ。命懸けの勝負だこのやろー。

<4月20日> 朝から抗癌剤を入れた。今回はあまりきつくなかった。夕方かずくんが奥さんと子供を連れて来てくれた。あまりの可愛さに赤ちゃんが欲しくなった。夜、先生から、腫瘍マーカーが下がったと言われた。すごく嬉しかった。なぜだかわからないけど、少しずつ少しずついい方向に向かっているような気がする。頑張ろう。抗癌剤7クール目終了。

<4月26日> 先生から、腫瘍マーカーがまた上がったと言われた。連休明けにまた違う抗癌剤をやるらしい。お父さんも一緒に話を聞いていて、かなりへこんでいた。先生も悔しそうだった。俺自身も恐さや不安よりも、悔しさのほうが大きかった。今回はかなり手ごたえがあったから余計に悔しい。明後日CT検査で、日をみてPETと骨の検査をするらしい。まだまだやれるよ俺は、絶対勝つ。

父・真微さん
 「癌は今の日本にはまだ治療薬がない。だから、いいと言われるものは全部やりました。わらをもつかむ気持ちで。家族に癌患者を持つ人々の勉強会に参加し、積極的に意見交換をした。抗癌剤はいい細胞も一緒に殺してしまう。アガリスクなどのサプリメントや、2リットルで1万8千円もする水が癌に効くと聞けば、買ってきて元に飲ませたし、怪しい商品斡旋みたいなものにだって手を出しました。私たちには信じるしかなかった。有り難いと感謝して、それに飛びついていきました。神社にも毎朝お参りしました。道を歩いていて、太い木に釘が刺さっているのを見れば、それがよくないんだと思って抜こうとしたり。まだ暗い午前5時に道端の木から釘を抜こうとしているなんて、どう考えても変な人でしょ。でも、そのときは必死だった。きっと自分の息子が癌になったら、他の親御さんも同じようになると思う。川で跳んでいる魚を見れば、病気が治るよう手を合わせてお願いしたし、バイクで倒れている人が起き上がるのを見れば、あぁ元も助かると思ったりもしました」(父・真微さん)。
 そんな父子の闘病生活、真微さんが持ってくる治療法や薬には、すべて前向きに取り組んでいた元だったが、中には途中でやめてしまったものもある。呼吸法や精神治療を行う類のものがそれだ。元は発病以来、常に「ラグビーに復帰すること」を生きがいに癌と戦ってきた。だが、それにより身体と心は常に張り詰め、緊張状態にあった。「一旦戦うことをすべて忘れる、ラグビーのことを考えるのはやめる」。そうすることで、体内に緊張が解け、ポジティブな領域が広がり、身体にとって良いバランスが生まれるという考えの治療法もあった。
 病気を治すためなら、どんなものも受け入れ、取り組んできた元だが、この療法だけは「ラグビーを頭から消すなんてオレにはできない。他の治療を考えよう」とやめてしまった。

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治療
 どれだけ、ラグビーに復帰することを力にしていたとしても、あまりにも長引く入院生活に、元は度々精神的に取り乱すようになった。
 「2、3日は手が付けられないくらい荒れたこともあった。でもその後には、必ず自力で冷静さを取り戻した。こんなに辛い治療に耐えられるなら、ラグビーの練習だって大丈夫だ。オレは必ずよくなって復帰すると」(望月チームドクター)。
 病室の外で、家族が医者と話して泣いている姿を見て、心を強くした。「オレには背負うものがいっぱいあるから。負けてられない」(元)。
 元はどこまでも男だった。一人では歩けないような身体になって、麻里さんに抱えられるようになっても、トイレの前では「ここからは一人で大丈夫だ」と言って、決して妻を中へは入れなかった。病室で吐いて、身体の痛みでもがいても「情けない。こんな姿、トモには見せられない」と悔しがった。
 「すごい具合悪いときでも、看護婦さんに変な顔して笑わせたりしていて。その顔見るたびに、なんなんだろうな、この人は。自分が痛くて苦しいのに、兄貴何やってんだろうって」(知裕)。
 自分の弱い姿を仲間に見られたくなかった。だから、見舞いにもあまり来て欲しいと思わなかった。「元ちゃんは自分がこんなに辛いのに、行くと「お忙しいのにすいません」って頭下げられて。明るくて、気を遣ってくれて、逆にこっちが励まされた。病室に行くたびに「ラガッツの調子はどうですか?」っていつもチームのことや仲間のことばかり気に掛けていた」(吉村英哉チームドクター)。
 7月に行われた新たな治療では「さすがに見ていられなかった」と麻里さん。ほぼ三日間、ベッドの上で痛さのあまりのた打ち回り、出るものもないのに吐き続けた。「ハンマーで全身を殴られてるような感じ」と元本人は表現していたが、湯船に浸かった状態が一番楽だったという。このときに脱水症状を併発し、腎臓の機能はすべてやられてしまった。入院生活半ばからは、抗癌剤に加え放射線治療を並行して行うようになったが、表立った成果は見受けられなかった。
 「医者に次でダメなら、と言われたときは私自身心の中で覚悟しました。あんなに食欲があった人が食べられなくなって、あんなに力が強かった人が薬のキャップが開かないといって、私に開けさせる。こんなに大きな背中の人が日に日に弱っていく姿を見ていたら、誰にも言えなかったけど、早かれ遅かれそういうときが来るのかなと」(麻里さん)。

 (元の日記より)
<6月7日> 抗癌剤を入れた。かなりきつい。いつもより体への負担が大きいと感じた。昨日の採血で、マーカーが90まで下がったと言われた。これから上がることなく下がり続けることを信じようと思う。消灯前に望月先生が来てくれた。会社のことや結婚式のことなど病気以外に考えることが多すぎる。マジで嫌になる。今日から9クール目の抗癌剤が始まった。人生最後の抗癌剤にしたい、頑張る。

<6月26日> 今日は俺と麻里の結婚式1年記念日。去年の今日は最高に幸せだったのにな。また幸せな毎日に戻らなきゃな。今日は昨日買ってきた干物のお土産を麻里の会社の友達の家に届けにいった。みんなすごく喜んでくれた。明後日、家族を交えてこれからの治療の説明が先生からある。徹底的に話し合う。

<6月28日> 今日覚悟を決めろと先生に言われた。次の抗癌剤が効かなかったら完治は難しく5年、生きられるかわからないと言われた。頭が真っ白になった。何も考えられない。

<6月29日> 久しぶりにグラウンドに行った。みんなと久々に会って、みんな口々に元気そうでよかったとか、病気に見えないとか言ってくれた。辛かった。加藤さんに昨日先生に言われた事や今の自分の思いを話した。涙が止まらなかった。ほんとにセコムに入って良かった。
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遺影
寄せ書き
 元が亡くなってから、2ヶ月が経ったある日のこと。セコム本社の広報室に、テレビ朝日の報道番組『報道ステーション』から「生沼選手のことを番組内の企画で扱いたい」という打診があった。『さよなら』というコーナーで、その月に亡くなった有名・無名を問わず、視聴者の記憶に残る、または残しておきたい人たちを取り上げ、故人の生き様・その足跡を紹介し、死を悼むというものだ。
 広報室から話を受け、過去の放送内容に目を通しながら私は考えた。元の死は当初、癌の公表を避けたこともあり、メディアで取り上げられることはほとんどなかった。こんな生き方をした人間、ラガーマンがいたということを、もっと多くの人に知ってほしい。それはご遺族の意向でもあったし、いい機会なのではないか。
 私は、家族の意思を最優先することを条件に取材を快諾した。そして番組ディレクターに「自分も一人のスタッフとして加わるぐらいのつもりでやるから、ぜひ一緒に良いものを作りましょう」とさえ言った。
 しかし、加藤尋久ヘッドコーチには大反対された。「お前は元の何を伝えたいんだ。そもそも、お前は元の何を知ってるというんだ」。私はどこまでも浅はかだった。メディアが作り上げる生沼元という人物像。それは、我々が知っている元とは違う人間になってしまう可能性がある。加藤ヘッドコーチに限らず、ラガッツの仲間たちはどこまでも、元の存在を大切に思っていた。病気との闘いだって、すさまじいもの。それをたった数分のVTRになんかまとめてほしくない。みんなの気持ちだった。
 結局、撮影は決行された。ご両親や弟・知裕、加藤ヘッドコーチを拘束してのインタビュー、元が使っていた靴箱やロッカーなどの風景。そしてラガッツが今季トップリーグ初勝利を挙げたリコーブラックラムズ戦の様子まで、カメラには事細かな映像が収められた。これだけの内容があれば、しっかりとしたものが伝えられる。私はそう確信して放送日を待った。しかし、全国ネットで流されたオンエア映像は予定されていた内容よりも大幅にカットされたものだった。放送当日に急きょ、姉歯秀次元一級建築士らによるマンション耐震偽装問題の特集が入ってきたため、内容が変わってしまったのだ。
 淡々と元の一生を振り返り、次のコーナーへ切り替わっていった映像を見ながら、私はしばらくテレビの前から動けなかった。これで、終わりなのか。もちろん、スタッフの方たちは寝る間も惜しんで取材を重ね、良いものを作ろうと努力されていた。感謝の念は絶えないが、もう放送は終わってしまったのだ。二度と流されることはない。
 私も、この件では開幕から長い連敗に沈んでいたチームに混乱をきたした。練習風景の撮影では、カメラマンへの線引きがしっかり出来ていなかったため、明らかにいつもと違う雰囲気をフィールドに生み出してしまい、大事なゲームの直前に主力選手にケガ人を出す要因を作ってしまった。幸いにも急きょメンバー変更をしながら、ラガッツはタフな戦いぶりで、今季初勝利を飾ることができたが、チームメートや関係者には多大な迷惑や心配をかけた。この場を借りてお詫びしたい。
 報道の世界ではよくあること、そう割り切ってもあまりにも言葉足らずな映像を前に、それからしばらく、私の胸にはぽっかりと大きな穴が開いてしまった。

生沼元へ
同期前田 貴洋

 元が亡くなったというメールが届いたのはオレが入院中の夜中のことで、携帯の音が鳴ったわけでもないのにふと目が覚めて携帯を見てみると「元が亡くなりました」って書いてあって、全然長い文でもなかったのにまったく理解できんかった。
 どうせ寝ぼけて夢でも見てるんやろうと思って寝ようとしたけど、やっぱり気になってメールを読み直してみた。それでも、やっぱり書いてることの意味が理解できんかったな。それは朝起きて読み直しても同じ。何日経っても同じやったわ。
 今、考えてみればそれは当然のことで、元のことを知ってるヤツはみんなそうやったと思う。あんなに元気で強くてデカいヤツが死ぬなんて信じられるわけがないよな。
 オレが元と出会ったのは高3の9月で、高校日本代表の候補合宿。まあ、あのキャラやから目立つし「イカツいヤツやなぁ」っていうのがその時の印象。それから花園や大学の合宿なんかで会うたびに話をしていて、社会人で同じチームに。チームメートになってわかったけど、ほんまに明るくておもろくて、ラグビーが大好きで負けず嫌いで意外と几帳面できれい好きなヤツやったな。
 何か元との思い出を書こうと思ったけど、セコムに入ってからの5年間でグラウンドでも、酒の席でも元との思い出がいっぱいありすぎて次から次へと出てくるし、どれを書いたらいいかわからんわ。
 ただ一つだけ言えるのは、元と同期としてセコムでプレーできたことは幸せやったし、絶対忘れへん。一生の思い出やな。
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第五章 別離
選手名鑑
 2005年8月、月刊『ラグビーマガジン』9月号付録の選手名鑑に、KooGaの新ジャージーを身にまとった元の写真が弟の知裕と仲良く並んで掲載された。病室のベッドでそれを目にした元は驚き、とても喜んだという。
 この元々の写真は2004年4月、福島県のJ-ヴィレッジで私がサイトのプロフィール用に撮影したものだ。以前のジャージーを身にまとったその写真と、KooGaジャージーを合成したものだったが「みんなオレのことを気にかけてくれて。時間掛かってもグラウンドに戻って、みんなと一緒にラグビーがやりたい」(元)。
 私が撮ったこの写真は、結果的に元の遺影の顔として使われた。何か複雑な思いではあったが、仕事柄カメラに携わる人間としては、幸せなことだと思う。ご両親からは「怒っているようにも、笑っているようにも見える。自然で元らしい表情だし、味のあるラガーマンの顔に写っている」と言っていただいた。
 『ラグマガ』が発売された後、元は一人でグラウンドに姿を見せると、「もう少し、入院が長引きそうだから、病院の周りを歩くことにしたよ」といって、アップシューズと練習着を取りに来た。とても元気そうな様子であったがこの後の2週間、元は外部の誰とも連絡を断った。
 選手名鑑を目にして、もう一度復帰へ向け心を奮い立たせた元。しかし、その直後に病院でドクターから最後通告を受けた。
 「もう治療法はない」。
 この時期に起こった出来事は、ごくごく身内の人たちにしかわからない。壮絶な苦しみがあったことだろう。

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グラウンドにて
モデル
モデル
 「兄貴、たまにはグラウンドに来ないか」。知裕がメールを送ったのは、元がそんな絶望のどん底にいるときだった。このシーズンからラガッツはWRS KooGa社とスポンサーシップを締結し、ジャージーのデザインを一新。7月に行われた記者発表では、知裕がチームのジャージーモデルを務めた。思えば、2年前、トップリーグ1年目のジャージー発表で、モデルを務めたのは兄の元だった。これも何かの縁だろうか。実に絵になる兄弟である。
 加藤ヘッドコーチは、KooGaの新ジャージー、練習着、そしてスパイクなど元の貸与品一式を揃えて「元本人に取りに来るよう言ってくれ」と知裕に伝えたのだ。
 9月2日、グラウンドに現れた元を見て、知裕は愕然とした。「顔が真っ白で、2週間前に見た兄貴とは別人だった。一体何があったんだろうって。正直、やばいんじゃないかと思った」(知裕)。
 病院を退院した元は、放射線治療のみの通院に切り替え、実家で生活しながら次の治療法を考えていた。しかし、抗癌剤の副作用で食欲は極端に落ち込み、微熱も続く状態だった。それでもグラウンドに来て、チームメートと話し込むと、元はみるみるうちに元気になった。
 グラウンドの周りを歩いて汗をいっぱいかき、そのたびに水分を摂った。仲間と話す顔はとても楽しそうで、そんな顔を見て知裕は「病院よりも、ずっとグラウンドにいる方が、もしかして兄貴の身体にとっては効果的なんじゃないか」とさえ思った。
 「おそらくこの頃ものすごく具合が悪かったはず。でも、これで自分自身まだいけると思った」(知裕)。
 帰り道、元は「トモ、ラーメン食いに行くぞ。油行こう、油」と言い出し、同じポジションの後輩・丸山隆正と3人で寮の近くにある油そば専門店『油濱』へ足を運んだ。元は機嫌よく、とても元気だった。知裕が「最近、食事もまともにしてないんだろ。そんなに食べたら気分悪くなるからやめとけよ」と言ったが「いいんだ、いいんだ。オレは今食いたい気分なんだ」と笑い飛ばし、油そばを一杯平らげてしまった。
 「あの日のことはよく覚えています。「半年ぶりだか、8ヶ月ぶりに来ました」って生沼さんから話し掛けてくれて。寮が店の近くに移って来てからは、何度かいらっしゃいました。一度、奥さんと一緒に来ていただいたこともあって。いつもは特大を召し上がるのに、あの日は並盛。病気だったことは知っていましたが、顔色がひどかったので、よくなったんですかとは聞けませんでした」(『油濱』店主・井川大助さん)。
 店を出ると、元は寮へ行き知裕の部屋で腰を下した。「医者にもう治らないって言われたよ。オレ死ぬしかないのかな」。その夜、知裕は自分の前で初めて涙を流し、泣きじゃくる兄の姿を見た。

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 翌3日、元はセコムラグビーフィールドのグランドオープンに姿を見せた。セレモニーに出席し、新しいジャージーに袖を通したが「オレだけ顔が真っ白じゃん。病人みたいで嫌だ」と元はバツの悪そうな顔でみんなと一緒の集合写真に収まった。

 (元の日記より)
<9月2日> 今日も朝から調子が悪かった。昨日加藤さんから新しい練習着ができたから取りに来いとお誘いを受けたので、17時過ぎに行った。不思議なことに、グラウンドについて新しい練習着に袖を通し、用意してもらったスパイクを1年ぶりに履いたら、嘘のように元気になってしまった。みんなからたくさんの免疫力をもらえた。ほんとに感謝です。トモの部屋でいろんな事を話した。ありがとな、ともひろ。

<9月3日> オープニングゲームを、麻里と二人で見に行った。久しぶりにラグビー部以外の人達と出会えて、またたくさんの免疫力をもらえた。試合も勝ったし、元気もいっぱいもらえたし、最高の一日だった。明日は麻里とお父さんとお母さんと4人で西武園の花火を見に行く。麻里の浴衣姿久しぶりだなー、かなり楽しみ。一つ気がかりなのは、日を重ねる事に胸が苦しくなっていくこと。月曜日の外来で聞いてみようと思う。
 日記は、この日を最後に白紙となっている。

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ブタの貯金箱
部屋
 元の両親が暮らす実家のリビングには、ピンクのブタの貯金箱が置かれている。元々は妻の麻里さんが元にプレゼントしたものだが、病気が治った暁には二人の新婚旅行の資金にと、父の真微さんが『マリ貯金』と命名して、500円、100円、50円を事ある毎に入れていた。「二人でハワイに行って、ラスベガスで遊ぶ」(元)と宣言していたハネムーン。小銭では少しの足しにしかならないのは分かっていたが、元は毎日のように中を覗いては、いくら貯まったか嬉しそうに数えていた。
 病院を出て、実家に戻った元の手足はしびれがひどく、自由が利かない状態だったが、それでもいつものように貯金箱を開けてお金を数えようとした。そのたびに上手くつかめず、硬貨は「チャリン、チャリン」と音を立ててテーブルの下に落ちた。それを拾い、また数えようとする元。何度も何度も、お金を落としては拾い、ゆっくりと数えていた。「チャリンっていうお金の落ちるあの音が、耳にこびりついて離れない」(真微さん)。
 身体は大きいが、繊細で几帳面な性格だった元。再び実家で暮らし始めても、部屋の整理を怠らなかった。元が最後に使ったままになっている部屋。本棚には子供の頃から好きだったという漫画本『はじめの一歩』がまるで本屋の店先のように1巻から順番にきれいに並べられている。

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 グラウンドを訪れてから数日、元は生きる道を探して新たなチャレンジを始めた。「残されたわずかな可能性に懸けたい」(元)。9月13日、3度目の正直。最後の望みを懸けて免疫療法に取り組み始めた。しかし衰弱が激しく、すぐに再入院の手続きを取ろうとしたが「冗談じゃねぇ、オレは帰る」と言って何度もベッドから出ようとした。「弱っていても力は強かった。あの大柄なオヤジを吹っ飛ばしていたから」(知裕)。元はすがるように言った。「トモ、ここにいたってよくならない。一緒に家に帰ろう」。
 検査の結果、既に元の肝臓は、通常の人間の倍以上に膨れ上がって肺を圧迫しており、その臓器のほとんどが癌細胞に覆い尽くされていた。前年の12月には燃えカスぐらいしか残っていなかったはずの癌細胞は、それからわずか1年も経たないうちに全身に転移していた。
 直後に容態が悪化して病院に搬送された元。14日夕刻、緊急入院。
 翌15日早朝には危険な状態だと家族から連絡を受け、知裕も病室に呼ばれた。
 駆け付けた弟の姿を見た元は「なにしに来たんだ。開幕戦メンバー入ったんだろ。お前は早く練習に戻れ」と怒鳴り、何度も追い返そうとした。最後は、呼吸をすることも、横になることもままならず、体を起こしたままの状態でベッドのテーブルに頭を乗せ丸二日過ごした。

生沼元へ
生沼 麻里

 私の人生ってなんなんだろうって思った。2年の間に母を亡くして、夫も亡くして。だけど、今こうしてゆっくりと時間を過ごしながら感じるのは、結婚生活悪いことばかりじゃなかった。楽しい時間はすごく少なかったけど、私は彼の病気を一緒に過ごすために出会って、結婚した気がして。すべて初めから決まっていたことなのかな、って思えるようになった。
 病気になったことで、おかしいけど元と一緒にいられる時間が増えた。それまでは、毎日仕事行って、練習行って。遠征行けば何週間も帰ってこないし。だから、病気になって二人で初めて旅行行ったりして、なんか普通の夫婦みたいだねって。
 6月の私の誕生日、一緒にご飯食べに行く約束をしてたけど、ちょうど検査の結果を聞きにいく日で。よくなってないことがわかって、元はひどく落ち込んだ。「やっぱり今日はご飯行く気にならない」って言われたけど、ここんとこずっと室内にこもっていたし、私も休み取って、無理やり伊豆の温泉に出掛けた。元はあのとき「お前が連れ出してくれたおかげで、気分晴れたよ。ありがとう」って言ってくれたね。
 ご両親にとっての元は息子だし、トモくんにとってはお兄さん。代わりはいないの。でも私は自分の身に起こったことは事実として受け止めて、これから先、また違う人生を歩き出さなきゃいけないんだなと思う。元がいなくなって正直、第二の人生のこと考えたら不安になる。
 でも思うのは、元と結婚してよかった。お葬式でもあんなに多くの人に惜しまれて。セコムも大東の仲間も。すごい友達に恵まれてると思った。私はこの人でよかったんだなぁってわかった。亡くなってからも、加藤さん(ヘッドコーチ)や上野さん(進)や同期のみんなも「元がいなくても、もう麻里ちゃんはオレたちのファミリーなんだから」って言ってくれた。
 いい仲間にいっぱい巡り合えたんだね。
伊豆にて
終章 エピローグ
 「あと、試合時間は何分残ってるんだ」。
 「オレは、あと、どれだけ戦えばいいんだ」。
 最後まで愛し続けたラグビーに思いを馳せた男は、唸るように喉を振り絞って呟くと、もうそれから意識が戻ることはなかった。
 「最後に一滴だけ、兄貴の目から涙が流れ落ちたんです。まるでTVドラマみたいに。あの涙が兄貴の気持ちのすべてだったと思う。悔しかったんだ」(知裕)。
 9月16日、午後10時22分。生沼元は最愛の家族に看取られながら、永遠の眠りについた。
 
.......

 翌日、トップリーグ開幕戦前夜、元の携帯電話に一通のメールが届いた。
 「明日は勝とうぜ!! お前と一緒にグラウンドでな! なっ、相棒」。
 既に元がこの世にいないことを知りながら、小池が打ったメールだった。
 「絶対勝てるから!! たのんだよ! 相棒の妻より」。
 2005年度シーズン、ラガッツはトップリーグで2勝9敗の10位に終わった。知裕は、元に代わって1年間ロックのポジションを守り、8戦の先発出場を含む9試合に出場した。

 追憶のレクイエム──。26年の生涯を閉じた元を偲んで作成された一本の追悼ビデオがある。齊藤政美コーチが手がけたこの映像は9月25日ヤマハスタジアム、10月1日秩父宮ラグビー場の観衆の前で流された。
 映像の最後には、こう綴られている。

  いつも私たちの胸に
 ─ Always in our Minds
  永遠に私たちの心に
 ─ Forever in our Hearts
  忘れはしない
 ─ Let us Never Forget
  友よ安らかに・・・
 ─ Rest in Peace Dear Friend

 元が生きて、チームに残してくれたものとは何だったのだろうか。
 「元がここにいたっていう事実。生沼元という選手がセコムラガッツにいたというまぎれもない事実。これは誰もが忘れてはいけないこと」(加藤ヘッドコーチ)。
 いまも、どこかで、元が見守っていてくれる気がする。
【文責=小谷たけし Feat. SECOM RUGGUTs】

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